心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

世界を言祝ぐ言葉たち。

わたしは誰かが語る大好きなものの話を聞くのが好きだ。


好きなものを語るとき、その人は世界を言祝いでいて、その人から語られる好きなものを中心とした世界がきらきら輝いていて、とても美しいと思うから。


世界にどんなに酷いものがあっても、人がどんなに醜くても、誰かが何かを好きだと言うその言葉の数だけ世界に美しいものがあるという証明になるようで、世界の素晴らしさが拡張されていくような感覚を覚える。


そして、その人の好きなものを共有できる言葉というものがあって、その人とともにそれを共有できるということがどれだけ素晴らしいことか。


言葉がなければわたしは誰かと世界の美しさを分かち合うことが出来ず、わたしの世界はわたしの好きなものの数だけでしかその美しさを測ることが出来ない。


誰かと言葉を交わせるからこそ、今目の前にいない(時間軸としても空間軸としても)誰かの言葉を今読めるからこそ、わたし一人では到底集めることが出来なかった世界の美しさをたくさんもらうことができる。


わたしたちは、後の世代に生きれば生きるだけ、これまでに先人たちが積み重ねてきた世界を言祝ぐ言葉の数々に、美しい世界の数々に触れることが出来る。

それだけで、わたしはなんと幸せな時代に生きることが出来ているのだろうと思う。


藤原道長が空に浮かぶ満月のようにこの世を治めていた時代、時代の敗者であった清少納言がただひたすらに綴ったのが世界を祝う物語であったということがとても美しいと思う。


自分の愛する人を育んでくれたこの世界を否定するのではなく肯定し続けることで、素晴らしいものを見つけ続けることで、清少納言中宮定子を言祝ぎ続けたのかもしれない。


日常の何気ない場面に、何気ない仕草に、何気ない一瞬に、美しい世界を見出し続け、その言葉で世界を言祝ぎ続けたのが清少納言だったのかもしれない。


ほとんどの言葉はただ綴られ消えていく。後世まで残るものは多くはないけれど。でも綴るなら世界を言祝ぐ言葉を紡ぎたいと思う。


そんなことを感じさせてくれるTwitterの言葉があって、多くの言葉に触れられる今の時代は最も幸せに近いのかもしれないと思う。

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