読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

天才万博2016 キングコングの漫才に見る、大好きなことを大好きな人とただただやることの果てしない力。

f:id:kayamy:20170101000209j:plain

天才万博2016


その2日目にあった、


キングコングの漫才。



あれだけ西野さんについての投稿を重ねておきながら、実は一度も見に行ったことはなかった。



理由は簡単。


漫才に興味がなかったからだ。



わたしはある人を好きになったとしても、その人の全てを肯定してその人が関わっているものは何でも見に行く!応援する!ということはしない。


あくまで、自分が興味を持ったもの、ピンと来たものにだけアプローチするという姿勢を取っている。

ある意味、コアなファンになりきれない残念な人なのだが、それでも自分の心が震えるものにだけ時間を使いたいと思うのだ。


どんなに尊敬する人でも、どんなに大好きな人でも、その人の全てが自分に響くわけではないし、それでいいと思うから。


そして、響かないものに対してお金や時間を使わないことも、その人に対して敬意を払うことでもあると思っているから。

時間とお金を、義理で使うことは、お互いにとって不幸だ。その人が最高のものを提供してくれているのに、受け取りきれないから。わたしの代わりに、その最高のものを強く深く受け取れた人がいたかもしれないのに。



もちろん例外はあるし、それにどんなものでもその人から生み出された表現には違いがないのだから、程度の差こそあれ、結局のところ好きだなあって思うのかもしれないけれど。


でも、100%大好きだってことはありえないと思ってる。だってどんなに大好きでも、あなたとわたしは違うから。100%大好きだってことは、その人の事を本当には見ていないってこと。

大好きな人の、相容れないところ、嫌いなところもきちんと見て受け入れて、その上で、それでも大好きだって言える人でありたい。



そんな風に考えていたわたしだけれど、本当に失礼ながら完全にノーマークだったこの漫才で、この日、わたしの中の漫才の概念が天変地異を起こすほどにひっくり返った。



最初から最後まで面白くて面白くて、息をつく暇もないくらい笑い転げて。あ、多分次これこう言うんだろうなって想定できてもやっぱり面白くて笑ってしまう。


まるで魔法のように、滑らかに進む舞台と、息のあった、寸分も狂わない掛け合い。


漫才の世界にあっという間に連れて行かれて、現実に戻る暇もない。ただただ、二人が作り上げる面白くておかしくて、どうしようもないその世界の中でずうっと笑っていた。



笑い転げてお腹が痛くなるくらいの中で、その一方で、わたしはただただ感動していた。


彼らの一挙手一投足から、とにかく、目が離せなかった。


なんだか、とても美しいものを見ているような気がしたから。


全部が本当に無駄がなくてぴったりで、呼吸も挙動も驚くほどに合っていて、それがなんだか、本当になんだか、一つの芸術を見ているような、そんな気持ちになったから。


その道を極めた噺家の手元には、酒を注ぐ徳利が見える。箸に絡まる蕎麦が見える。


そんなことを思い出す。


極めたものは、美しい。たとえそれがどんなものであっても。


漫才を、美しいと思う日が来るなんて思わなかった。漫才は、単なる娯楽だと思っていた。でも、歌舞伎も能も、最初は娯楽だった。それが芸術に昇華された。



これは、実際に至近距離で、彼らの漫才を直に体験しなれば気づかないことだったと思う。


漫才に興味のないわたしも、実家にいた頃は家族がつけるテレビ番組で漫才を見ていた。その時は、そんな気持ちに微塵もならなかった。


それは、わたしの感性が鋭敏になったからということもあるかもしれないけれど、でもきっとそれだけじゃない。



直接、生で観たからこそ気付けたことだと確信している。



実際に触れること。目の前に生身の人間がいること。それがどれだけ素晴らしいことか。映像を通して、写真を通して、それだけでは決して、決して伝わらないものがある。


もちろん、映像や写真の価値を否定したいわけではない。

映像や写真を通してしか伝わらないこともあるから。両者はまったく性質の違うものだ。



人によって、これは程度の差があるかもしれない。

けれど、わたしは特に、今目の前にある、生のその場を感じ取り読み取る人間だ。だから、直接触れることが本当に、本当に重要なのだと、欠かせないのだと、この時確信した。


だから、もっともっと、自分が何に触れるのか、何に時間を使うのかに対して自覚的にいよう、神経を研ぎ澄まそうとそう思った。

時間は限られていて、しかもいつ突然終わってしまうのかもわからない。今会いたい人に1年後に会っても意味がない。その時間は今と1年後とではまったく違うものになっているから。


だから、自分の時間を、誰と、どのように過ごすかについて、もっともっときちんと考えよう。向き合おう。その選択の差で、人生の豊かさが、時間の価値が、天と地ほども違ってくるから。




彼らの漫才の美しさはもちろんだけれども、彼らが、本当に、本当に楽しそうに嬉しそうに幸せそうに漫才をしているその姿にも感動した。


大好きな仕事を、大好きな人と一緒にやれるって、それだけでこんなに幸せなのかと思った。


見ているだけで、本当に幸せだった。

漫才が大好きで、相方が大好きで、こうして漫才をやっていることが、本当に楽しくて幸せで。それが節々から、一挙手一投足から伝わってくるようだった。


本当に大好きなことを、本当に大好きな人と一緒にやっている時って、こんなにも人は輝くのかとそう思った。


そして、その輝きで、こんなにも人を幸せにするのかと。


大好きなことを、大好きな人とともにやる。

それがこんなにも素晴らしいことなら、それってわたしたちひとりひとりが目指すべき姿なんじゃないかって、改めて、深く深くそう思った。


感動すればするほど、嬉しく幸せに思えば思うほど、自分はどうだろうかとも考える。


いつもいつも、最高の舞台を見せてくれる人たちを目の前にして、わたしは感動するだけでは終われない。

何度だって、繰り返し、自分はどうだろうかと、自分はどうするのかと、自分には何が出来るのだろうかと、考えるきっかけを、チャンスをもらう。


まだ答えは出ない。輝く人を見れば見るほど、その彼岸の距離に気が遠くなる。けれど、それを感じることができること、自覚できることは幸福だと思う。前に進もうと思えるから。次の一手を考えられるから。わたしは熟考しすぎてグダグダになりがちだけれども、それでも。



漫才ひとつでこんな記事を書くような人もいないだろうけれど、でもわたしはもしかしたらこれを見るために、今年はここに来たのかもしれないって思うくらい、感動した。


ここに来てよかった。

たくさんのことに気付けた。

たくさんのものを、もらった。



心から、心から、ありがとうございます。



そんな風に大切なことも学べてしまう天才万博。

(それはわたしだけかもしれない)


来年は3日間に拡大しての開催です。


12月28〜30日、場所は東京は鶯谷駅徒歩5分、東京キネマ倶楽部

演者はほとんど決まっていないけれど、最高に楽しくて嬉しくて幸せな時間になることは、過去3回で保証済み。

なんともうすでにチケット販売開始しております。
是非是非こちらからor小谷さんの元へ!

何度でも紹介しますが、今年の天才万博のダイジェストはこちらから。
見ているだけで、とっても幸せで優しい気持ちで満たされる、そんな素敵なムービーです。

1日目「夜空にかかる虹」

2日目「星たちの踊る森」