心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

あなたという器はグラスか、ゴミ箱か。

コップかゴミ箱か。


ここに器がある。

それがコップなのかサラダボウルなのかを決めるのは、

その器そのものではなくて、その器の意味づけである。


この器に入れるものを、

飲み物だけだと言えばそれはコップであり、

サラダだけだと言えばサラダボウルになる。


そして、

なんでもいいよ、

なんでも入れていい、

と言えば。


それはゴミ箱になる。


なんでもいいと言った瞬間、

最も価値の低いものになる。


そして、

これの恐ろしいところは、

一度ゴミ箱として使われたものに、

誰も飲み物やサラダを入れたりはしないこと。


Yesと言う前は、

何にでも使える器だった。


でも、Yesと言った瞬間に役割は固定され、

そしてその役割はずっと続くものになった。


わたしは何のためのものだろうか。

わたしは何のために生きるのだろうか。


何でもいい、

何でもする、


そう言った途端に、

人もどうでもいい人になる。


それは、本人がそれを選んだからだ。


だからこそ、何を選ぶか。

自分という器の中に何を受け入れるか。


どんな思考を持つか。

どんな言葉を使うか。

どんな行動をするか。


それは、とてもとても、大切なことなのだと思う。