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心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

「怒り」についての考察

先ほど。


ふわーっと道を歩いてて

ぶつかりそうになって

「前見て歩けボケ!」

と言われたわけですが。


彼女の心理はいかなるものか、

とふと考えてみたわけですよ。


(この前のコピーライター講座で心が動くことに

疑問を持ち、その理由を考えろと言われたので)

(そうでなくても日々考える人ではあるのですが)


全く面識のない人に対して

感情的に怒りを表すのは

心に余裕がないから、

というのがひとつ。


日々幸せで満ち足りていれば、

電車の中で足を踏まれようと

ちょっとぶつかられようと


「おおー」くらいで流せるわけで。

(その行為がその人にとって許せないものであれば別)


ほとんど電車の中だけでなのだけれど、

罵声を浴びせられたりすることもある。


そういう時にはわたしは一呼吸置いて

ああ、この人は日々疲れているんだなあと

思うようにしていますもちろんイラッとはするけど。


ただ、そうだとしても、

怒りが表現される時と

されない時があるはずで。


そこの違いは何だろうと考えた時、

それは怒りを表現した際の安全性、

であるのではないかなと思ったり。


自分に怒る権利または義務があると考えて、

相手が自分に対して抗することが出来ない、

もしくは怒りを表現しても許されるだろう、

と即座に判断できた時に自分の感情を表す。


つまり、感情的な怒りは自らにリスクがないと

状況判断がなされた時に発散されるのである。

怒りは感情だから抑えが利かないものではなく、

合理的かつ瞬時の判断のもとに行われるもの。


おそらくわたしが50代の強面の男性なら、

彼女は無防備に怒りを表さなかったはずで、

(個々人の評価レベルにより違いはあれど)

彼女がわたしを脅威でないと判断したから

怒りはそのまま抑えられることなく表された。


と、いうことなのだろう。


けれど、初対面のわたしが脅威でないなどと

どこで判断が出来るのだろうか、本当のところは。


外見だけでそうして判断して行動することは、

実はとてもリスクの高い決断かもしれないよなあ。


とここまで書けば、イライラはどーでもよくなる。

こうやって考えて文字起こしするのって精神安定剤


書くことって、浄化だよなあとも思ったのでした。