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心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

「書く」という行為について考える。

わたしが誰かに接して、その人について書くことは、インタビューではない。事実でもない。


わたしがその人の話を聞いて感じたこと、だ。


だから、わたしの書くものには、その日その人が言っていないことが当たり前のように描いてある。

それは、わたしの書くものが、その人が話したことでありわたしが感じたことでありその場にいた人たちが感じたであろうことであるからだ。

だから、わたしはその人について書くと同時に、わたしというフィルターを通して見えたその人のことを書いている。

これをどうカテゴライズすればいいのかわからないけれど、ざっくりと「感想」としか言いようがないものだと思う。


事実ではない。真実でもない。

わたしが感じたこと、だからだ。


だから、いつも「その人が伝えたいと思っていること」をきちんと捉えられていなかったらどうしよう、という恐れがある。

わたしはわたしの中から湧き上がるものを文章にしているだけだから、それが正しいのかどうかは、本人に見せてみなければわからない。

インタビューですらねじ曲がって解釈されることがあるのに、このインタビューでも事実のまとめでもない「わたしが感じたこと」の中には、真実があるのかどうかすら確かではないのだ。


「わたしが感じたこと」だから、正解も不正解もなく、どんなものでもいいのではないか、という見方も出来ると思う。


目の前の富士山を表現しろと言った場合に、一人一人まったく異なる表現をするように、対象物をどう捉え、どう表現するかは自由だと。


けれど、わたしの表現したいものは、その人の本質であるがゆえに、その自由度はある意味で認められない。

その人の本質を間違いなく捉えており、かつわたしなりの表現であることが求められる。


わたしにとって、文章はわたしの心を震わせてくれたなにものかへのラブレターだ。


そうであるのであれば、どんなに美しく褒めそやされていても、そこに真実の姿がなければ空虚なだけだ。


わたしの文章は、その人の心の奥の深いところに響かなければ意味がない。


破り捨てられるラブレターがその用をなさないように。



その人の心に届かなければ、意味がない。



それを考えると、自由に書くことはとても危ういような気がしている。

わたしの文章が本人に届くのであればいいが、そうでない場合、わたしの文章はその本質を捉えられているのかどうかといった反証を得ることができないからだ。


それでも、わたしは書きたいし、もし「その時」は間違っていたとしても、書き続けることで本質を捉えられるようになりたいと思っている。


これについて書きたいと思って書くことももちろんあるが、わたしにとって文章は溢れ出るもの。その対象に触れた時に、頭の中に流れ出す音楽のようなもの。その流れ出した音楽を譜面に落とし込むように、わたしは自分の頭の中に勝手に溢れて踊る文字たちを書き留める。


それが、わたしにとっての「書く」ということ。


わたしにとって「書く」ことは、呼吸をするに等しいこと。


ただ吸って吐くように、自然に生まれ、消えていくもののこと。



わたしの「こんな文章を書きたい」「こういうつもりで書いている」という感覚はあるけれど、勝手に溢れ出すものは、もはやわたしの意識の外にあるような気がしてならない。

そうはいっても、わたしの中に積み重なったなにものかを礎にして溢れてきているものなのだろう、とは思うけれど。


「書く」という手段を知ってしまったわたしは、これからも心震えるものに出会えば書かざるを得ないのだろうし、書いていく。


もう、そこはきっと変わらない。


ただ、それが、常にそのものの本質を常に捉えられているようでありたい。