心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

伊勢神宮再訪。神様だって、家族になりたい。わたしたち、天照大御神のこどもたちと。

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新年早々伊勢神宮に呼ばれた。


年が明けて、実家に戻って、青春18きっぷが一枚余って、ああ、それなら次の週末にお伊勢さんに行こう、と思った。


お伊勢さんで、厄払いをしてもらおう、と。


なぜお伊勢さんだと思ったのか、それはもう理由を聞かれてもわからないのだけれど。


でも、お伊勢さんでなければ、そしてお伊勢さんがいいと思った。



それなのに、一週間ほど体調を崩してしまって。

今回は諦めてまた次の機会にすべきなのでは、別の神社でお祓いをしてもらえばいいじゃないか、とも思ったけれど。



でも、それでも今だと思ったから、体調が回復するかもわからないのに宿を手配した。



前日が土砂降りだったというのに、その日は眩しいほどに晴れていた。



光の粒がきらきらと空中で輝いて、眩しかった。



外宮も、内宮も、あの時と変わらず、わたしを迎えてくれた。



静かで、ただただすうっと透き通った、あたたかいおだやかな場所。



素っ気ないほどに簡素なお宮が、また良かった。何を依代にすることもなく、偶像を崇めることもなく、ただ、あの布の向こうに置かれた鏡の中にいる自分自身と対話する、静かで透明なひととき。



自分の体が軽くなって、澄んでゆくような。



お伊勢さんに行ったあの夏の日から、わたしは神棚を家に作って毎日お詣りするようになった。



多くのことが三日坊主で終わってしまうわたしが、毎日毎日、お米とお塩とお酒を供え、神棚の前で手を合わせて、それから出勤する。



それが続いていることを、一番不思議に思っているのはわたしだ。それくらい、わたしの毎日に欠かせない、いつもの習慣になりつつある。



わたしたちは、すべて天照大御神のこども。



毎日ごはんをお供えして、お祈りすることは、家族といっしょに過ごすようなもの。


お札を持って帰るということは、家族が増えたということ。


同じ釜の飯を食べて、朝夕と共に過ごすことで、家族になっていく。そんな風にしてお付き合いを深めていくのだと、そんなことを教えてもらった。



神様だからということで、同じ家に住む家族と違うごはんをお供えして、神様だけの特別な器を用意すると、神様が家族になれない。その家に馴染めない。


お米じゃなくていい。朝、パンを食べる家ならそのひとかけらを供えて一緒に食べたらいい。だって家族なんだから。


同じ家に住んでいて、自分だけ違うものを食べて、そんな風に過ごしていたら、まるで除け者にされてるみたい。



同じようにご飯を食べて、その家に馴染んでいって、家族になっていけばいくほど、神様はわたしたちに近くなって、わたしたちの力にもなりやすくなる。



そういうこと、らしい。



神様でなくても、例えば尊敬する人や凄い人に対して、特別扱いすることで、その人を遠ざけてしまうことってよくあること。



それは間違いなく、その人を敬う気持ちとか、大切に思う気持ちからのものだったとしても、そんな風に扱われたら、少し、寂しく思ったりする、きっと。



同じ立場で、同じ目線で、会話が出来ないんだなあって。



わたしたちは、どうあったって、理解してほしい生き物で。それなのに、特別扱いされるともうその道は閉ざされてしまったんだなあって感じてしまう。


理解する、ということは、同じ目線に立ってもらわなければ出来ないことだから。



尊敬する人を、大切な人を、そうやって悲しませることは、お互いにとって、とっても不幸なこと。



それは、神様も同じなのか、ってそんなことに気付いたこの日。



神様もそうなら、人間の世界でどれだけ凄い人でも奇跡みたいな人でも、特別扱いせずに、ただ、その人を真正面から素直にまっすぐに見たらいい。



克服すべきは、自分のちっぽけなプライドとエゴ。



それだけのこと。それだけで、きっと世界は全然変わるのだろう。