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心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

篠山紀信展「快楽の館」は時間を超える体験型の現代アートである。

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品川にある原美術館の閉館期間を使って、すべての写真が原美術館の敷地内で撮られた写真で構成された個展。


それは、写真展の枠を飛び越えた現代アートであったと思う。


本来であれば、写真さえあれば個展はどこででも開催できる。絵画もそうだ。だから、全国巡回展といったものが出来るのだ。


けれど、この個展は違う。写真が撮られた現場である原美術館で展示されることに意味があり、原美術館以外で展示された瞬間に、この写真展が持つ意味は全く形を変えてしまう。


庭に出る。


今ここに立つ鑑賞者たる自分と、かつてここに立っていた被写体たる彼女。


時間軸が全く違う二つのものが、同じ場所で不思議に邂逅する。


そこにあるのは写真だけれど、わたしたちは、その写真の向こうに、実際にあの時そこに立っていた彼女の生身の姿を想像する。




ここに、彼女がいたということ。


その場所に、自分が立っているということ。



それは、写真を見る以上に、「出逢う」ということを強く意識させる。



それはある意味、今目の前にある現実を引き剥がす行為だ。



一般的に、わたしたちは風景の写真を見て、本物の景色を見たいと思って本物を見に行く。


けれど、ここには本物があるのに、わたしたちは本物を前にして写真の中の世界に想いを馳せる。



目の前の本物と、写真の中の虚構と。



目の前に現実の光景があるというのに、わたしたちは写真の中で、朝の彼女たちと、昼の彼女たちと、夜の彼女たちとの逢瀬を楽しむ。


現実がそこにあり、実際に自分がそこに立っているが故に、それはより一層のリアリティを持ってわたしたちを空想の世界に誘う。


それは、篠山紀信氏の写真の中の彼女たちが、あまりにも生きているから。あまりにも雄弁に語るからだ。



わたしたちは、写真と現実とを隔てた世界ではなく、写真と現実が融合し、時間軸を超えて空想の世界に遊ぶ。



まるでわたしたちがその場にいたかのように。


あの場所に彼女が立ち、あの場所に彼女が遊んだ。あの場所で彼女がこちらを見つめ、あの場所で彼女が目を伏せる。


今は昼だけれど、朝の光の下でも、夜の月明かりの下でも、彼女たちの姿を捉えることができた。



彼女たちと同じ場所にいるからこそ、わたしたちは、写真の中の彼女たちとともに、時間を超えて対峙することが出来る。





写真の中と、現実と。



あちら側とこちら側。




容易に乗り越えられないその境界を超えて。





これほどに場所が重要な写真展はない。



この写真展は、この場所で体感しなければならない。



これは、単なる写真展ではない。その場所に行って、その場所に遊ぶ、体感型のアートなのだ。



この場所でしか開催できないような、限定された写真展を開くことができるのは、彼の力あってこそ。



ここでしか体験できない、未知の世界に。



快楽の館で、時間を超える経験を。