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心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

篠山紀信展「快楽の館」彼の写真は人の本質を丸裸にする。

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写真を見て感じた最初の感想は「なんてうるさいんだ」だった。

すべての写真が生きた生身の人間の熱を持って、自分の存在を語りかけてくる。その瞳から、その佇まいから、どう魅せようと思ってカメラの前に立ち、その実彼女たちの本質はどこにあるのかまでが透けて見えるようだった。


写真に撮られるということは、とてもとても恐ろしい。こんなにも、その人の本質が大衆の前に明らかになってしまう。

その人がどんな人生を歩み、どんな厚みを持ち、どんな人間であるのかが、今この時目の前に詳らかにされるようだった。

一枚一枚の写真が自分がどんな人間なのかを語りかけてきた。あまりにうるさくて長居出来なかった部屋もある。

最初、なんてことのない写真なんじゃないかと感じた自分を恥じた。


篠山さんは、透明だ。

とてもとても、透明なのだ。


だから、どんな人も撮ることが出来る。

わたしは、こんなにも、「撮る人」の視線を感じない作品に初めて会った。

大体どんな写真であっても、そこには撮る人の想いが映り込む。だからこそ、写真は同じように見えてすべてが違い、それが写真家の個性となって作品を輝かせる。

けれど、たぶん、篠山さんの写真は違う。

極限まで、写真家の視線を捨象して、透明に純粋に撮る。

もちろん、撮りたいモチーフもシチュエーションもあって、被写体となった彼女たちは、篠山さんの指示に従ってポーズを撮り、表情を作ったのだろう。


けれど、ひとたびシャッターが切られた瞬間、そのに写真を撮るという第三者の目は消え去る。


ただ、撮られた彼女たちのありのままの姿が映し出され、ファインダーの中に閉じ込められる。


それは、どんな奇跡なのだろうかと思った。


目の前に並ぶ10人の女性。


彼女たちひとりひとりの瞳は輝き、そこに彼女たちの命を感じた。

ひとりひとりの生き様と、個性と、湧き上がる彼女たち自身を感じた。

レンズはひとつ。

けれど、その中に10人の女性を一人残らず「生きた」まま閉じ込められるのだ。

10人の女性すべてに意識を向け、そして自分自身の視点は削ぎ落とし、そして彼女たちひとりひとりの「命の残滓」を一人残らず一枚の写真の中に残す。


これは、神の業だろうか。


そんな突拍子もないことが脳裏に浮かぶ。


ひとりの魂をファインダーの中に捉えるのも大変だというのに、10人の女性を一人残らず、そして誰一人欠けることなく同じレベルで、その魂を写真に閉じ込める。


写真の向こうにいる彼女たちは生きていた。


生きていたのだ。間違いなく。






名前は知っていた。


すごい人だということも。



実際に写真を見て、震えた。



これが、彼の撮る写真なのかと。



実際に見なければきっとわからなかった。



彼の撮る写真は、わたしの文章の、写真の到達点に近い。


ただただ、対象に触れる自分自身を純粋に透明にして、そうして対象の本質をそのまま写しとる。


文章も写真も同じだ。


今目の前にある現象を、対象を、熱を、光を、文字と光という媒体でもって切り取るだけのこと。


彼の写真に直接触れることが出来て良かった。


会期に間に合って良かった。


またひとつ、素晴らしい世界を知ることが出来た、


その幸せに、心から感謝したい。