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心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

伏見稲荷大社。お詣りするという行為に、自分自身のあり方が問われている。

実家から東京へ戻る途中に、京都に立ち寄ってどこかの神社を参拝しようと思い立った。


最初は八坂神社にと思っていたが、何故か突然伏見稲荷大社へと変更してしまった。


伏見稲荷大社へ訪れるのは初めてだった。


正月三が日の伏見稲荷大社は、駅を出てから参道、境内に至るまで、人で溢れていた。


青い空に、赤い鳥居と社殿がとても美しく、新年の初めにお詣りするにふさわしい神社だな、と思った。


あれだけ人が溢れていたのに、本殿への参拝も、それ以降の社への参拝も、何故かそんなに時間がかからずすんなりと進んでいった。


人がひしめき合うのは社と社を繋ぐ道の間のみ。


同じ道を行く人々の多くは、その手にお札も福かさね(社殿で授与される縁起物)も持ってはいなかった。

そこここにお詣りする社があるのに、そこにも立ち寄る人は少ない。ただひたすらに、上を目指していた。


本殿、奥社のお詣りを済ませてさらに上、稲荷山への参拝へと足を進め、わたしはそこで過ちを犯した。



最後に詣るはずの白瀧社に行ってしまったのだ。



けれど、振り返ってみると、わたしはそこに行くために、伏見稲荷大社を訪れたような気すらするのだ。



参道から、一つだけ遠く離れた静謐なその場所の。

そこでの時間はとても濃密で、素晴らしいものになった。



その社を40年以上昔から守っている女性は言う。


かつては、ここで行を行うために多くの人が訪れ、その人たちのために座敷を解放していた。


かつては、参拝客で溢れていた。観光のために訪れる人ではなく、きちんとお稲荷さんにお供えをして、蝋燭を立てて。そうしてきちんとお稲荷さんに敬意を表していた、と。



今はもう、訪れる人も多くはない。

訪れる人の年齢も、年々上がっていき、それを継ぐ子どもたちも少ない。



あの、伏見稲荷大社の中の社ですら、そうなのか、と。


少し考えればわかるようなことなのだけれど、でも、確かにきっとそうなのだ。



パワースポットだご利益だ神社参拝だと言ってブームになって人が多く訪れたとしても。



その質は確実に変わっている。



ただ、お手軽に、簡単に、願いを叶えてもらおうと思ってはいないだろうか。


有名な場所にただお詣りして、お祈りして、おみくじを引いて楽しんで。そうして娯楽の一つのようにして帰って行ってはいないだろうか。


かつてはわたしもそうだった。お賽銭は1円か5円しか出したくなかったし、お守りに何の効果があるのかわからなかった。朱印にはスタンプ程度の意識しか持ち合わせていなかった。


個人的には、それも人の自由であるし、それを否定する気は毛頭ない。そもそもわたしもそうだったのだから、否定する理由がない。



けれど、思う。



お稲荷さんは神様で、何も求めないかもしれないけれど。


彼らを毎日守り、祈り、場を整えているのはあの場所にいる人たちなのだ。


彼らの生活ももちろんある。



でも、それだけじゃない。



真摯に祈りを捧げに来てくれる人のためにこそ、その場を守りたいし、祈りたいし、整えたいと思うのではないだろうか。


そして、お稲荷さんや神様が、その場に来る人の意識の集合体でもあるのだとすれば。


その場に来る人たちの質で、自ずからその質も変容していく。


いわんや、もしただ通り過ぎるだけで祈ってすらもらえないのだとしたら。


人が来れば来るほど、多くの人の思念の残滓がそこに漂う。それが元々そこに蟠っていた思念を徐々に侵食していくのだとしたら。



この場は一体どうなってしまうのだろうか、とそんなことを思う。



わたしたちは祈りのプロではない。


だから、祈りのプロである宮司さんや住職さんの力を借りる。


力を借りた、そのお礼が初穂料であり、お布施であるのだろう。



料理を食べたらそれに見合う対価を払うように、祈りの力を借りるのであれば、それに見合う対価を払う必要がある。



ご利益をもらおうと思うなら、まずはわたしたちが対象を敬い差し出さなければならない。



それが、彼らと彼らを守る人たちに対する敬意であり、礼儀なのだろう。


それは、等価交換とかそういったことではなくて、ただ、何かをもらおうとするのであれば、それなりの対価を支払う必要がある、というそれだけのこと。


その対価の考え方は人それぞれで、1円の人もいれば100万円の人もいるだろうとそういうこと。


その対価の高低でご利益が決まるわけでももちろんない。



多分、一番大切なことは、自分の今の経済状況において、金銭感覚において、どれだけ目の前の人なり神なりに、敬意を払えたかということ。


自分の中に、まさに自分の中にその尺度を持つこと。自負を持つこと。


だから、年収200万円の人が無理をして100万円の鳥居を奉納しろだとかそういうことではなく。



ただ、自分が敬意を払っていると。

その、事実の確認なのだと、思う。


多分それが自分の中できちんと確立されていれば、きっと幾らでも構わない。


自分が自分の願いを、祈りを軽んじた分だけ、それが自分に返ってくるのだということだと思うから。



そんなことを、白瀧社でその女性の話を聞きながら、稲荷山の参拝を終えてから、思った。



わたしたちは、神の前に立つときに、おそらく自分の心を試されている。


そして、その真実は、何よりも誰よりも、自分自身が知っているのだろう。

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