心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

ヌードの美しさ。対象はただ存在しているだけであり、意味を付与するのは鑑賞者である。

篠山紀信原美術館で個展を行っているという。

その個展は、すべてが新作、オールヌードで構成されている。


個展の名称は「快楽の館」。


いかにも、な名前だが、その名称にそぐわずそこに性的なものは存在しないのではないかと思う。



わたしは美しいものが好きだ。


人の磨き抜かれた肉体は美しいと思う。


それは、サバンナを駆けるヒョウの体のしなやかさであり、


水辺で優雅に羽ばたくタンチョウの優雅さでもあるからだ。




古来から、裸体は多くの美術作品のモチーフだ。


美術館に展示されているそれらを見て、性的なものを感じる人はそういないだろう。その肌のなめらかさ、技巧の素晴らしさ、その美しさに圧倒されることはあったとしても。


それが、いわゆる性的なものを目的とした雑誌の中においては、裸体の意味が180度変わってしまう。



同じ裸体をモチーフとしているのに、どうしてここまで感じ方が変わるのだろうかと、そんなことを度々思う。



それは間違いなく、それに込められた意図であり、それが提示される空間であり、それを受け取る人の背景である。



意図は作者のものでもあるが、空間のものでもある。



美術館に堂々と飾られることで、例えば春画のように、明らかに性的な意図で作成されたものであったとしても、その背景は剥ぎ取られ、それは「芸術作品」、「美しいもの」として定義され直す。


空間が、作者の意図を捨象するのだ。



絵は変わらない。対象は変わらない。ただ、定義付けが変わるだけで、同じものが180度異なる意味を持つ。



それが、これほどまでに顕著なモチーフも珍しい。



人だけが、すべての感情を表す対象物であると思う。



人の中にはすべてがある。それを描くのが、撮るのが、表すのが人であるかということもあるけれど。



人をモチーフにすることで、より一層自分がそこに投影される。


人は、本当によく磨き抜かれた鏡だ。山よりも、花よりも、それを表した人が何たるかを良く写す。



そして、服や、靴や、アクセサリーや、それを表す人の本質を吸収して乱反射させるものがひとつとしてなくなった裸体こそが、最も美しく残酷な鏡ではないかと思う。



対象は一糸まとわずそこに立つけれど、鑑賞者も一糸まとわぬ心を持ってそこに立つことを求められる。



それは、一種の恐怖ではないかと思う。



ただ体にまとった衣を脱ぐことよりも、心にまとった衣を脱ぐことの方が。



それを超えてその場に立つことが出来る彼を。



わたしは心から尊敬する。



そうして、そんな事を思ったからこそ、わたしは名前を知ってはいたけれども、実際に写真を見たことはなかった篠山紀信展に行く気になったのだった。



110まで。原美術館で開催中。

実際の感想はまた後日