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心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

高野山の朝のお勤め。祈りとわたしの人生との関わりが少し理解できた時間。

高野山で泊まった宿坊で、朝のきんと冷えた清冽な空気の中、朝のお勤めに参加した。


ただただ一心に、読経をする副住職の姿を見ながら、ああ、この人は、「祈る人」、なのだなと何の脈絡もなく思った。

例えばわたしが監査をする人であるように。例えば父が製造をする人であるように。妹が癒す人であるように。

それらと同じような意味で、「祈る人」なのだ。

何か特別なことをしているわけではなく、彼は「祈る」ことを職業として選んだ人。

だから、彼らに、宗教に「縋る」のはやはり違うのだ。

誤解を承知で、不遜を承知で言うなれば、彼らはわたしたちと同じだ。

ある人が料理のプロであるように、ある人が経営のプロであるように、彼らは祈りのプロなのだ。

料理や経営であれば、わたしたちはきちんと敬意と距離を保って頼りすぎることなく彼らと相対することができる。なのに、「祈る人」を前にするとそれが出来なくなってしまうのだ。

何か、わたしたちとは違う特別な人であるかのように、崇めてしまう。

そもそも、どんな宗教も、「わたしたちが」よりよい生き方が出来るために発明されたものであって、「だれか」を崇拝して頼ったり縋ったりすることを目的とはしていなかったはず。

どんなに素晴らしいひとも、先達でしかなく、わたしたちと同じ地平線上に存在する「ひと」だ。

わたしたちは、彼らに頼って彼らに救ってもらおうとするのではなく、彼らの力を借りて、自分の人生をよりよく、より豊かにしていく。あくまで、主体はわたしたち。

例えば、自分では作れないフランス料理のフルコースを食べに行くように、自分では出来ない祈祷や供養を任せる。

そういうものだ。

だから、わたしたちは彼らに頼ってはならない。縋ってはならない。

わたしたちは、わたしたちの意志で、わたしたちの足で、歩いていかなければならない。


もちろん、ひとりで出来ることは限られている。だからわたしたちは料理のプロの、経営のプロの、そして祈りのプロの手を借りる。

それによって、より人生を豊かにする。


そうやって、たくさんの、さまざまな人の手を借りながら、助けられながら、選び、選ばれながら、一番大切な核の部分は揺らがずぶらさず、自分の足で自分の人生を歩むのだ。



そんなことを、彼の読経を聞きながら思った。


本当は、もしかしたら違うことを学ぶべき時間だったのかもしれないけれど、わたしにとっての「宗教」「祈り」の姿が見えた時間だった。


お詣りすることは、祈願することは、御守りを得ることは、縋ることではない。自分の人生を誰かに委ねることではない。弱いひとがすることではない。ただ、それはともに生きるということだ。

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