心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

アートの起源 杉本博司 アートと世界とこの世の全て。

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マルセル・デュシャンの「泉」。

 

わたしが高校の美術の資料集の中で最も衝撃を受けた作品だ。

 

あの時の衝撃は、今でも色鮮やかに思い起こすことが出来る。

 

その作品に、よもやこんなところで再会しようとは思わなかった。

 

 

杉本博司さんの文章の中に、繰り返し、繰り返し、現れるデュシャン

 

彼は、現代美術、いや、アートというものの境界線を鮮やかに薙ぎ払った。

 

 

彼は、作品を「作らなかった」。

 

 

ただ、目の前の、どこにでもある便器に「泉」と名を付けただけだ。

 

 

それは、かつて存在したアートというものの定義が崩壊した瞬間だった。

 

 

そこにあったのは、「再定義」という思考行為だけ。

 

 

彼は、手も足もなにひとつ動かさず、この世の中にあるなにひとつ変化させず、

 

 

ただ、「名付け」という行為だけをもって、世界を変えた。

 

 

アートとは、この世にあるものすべて。それを、再定義すること。

 

描いてもいい。撮ってもいい。削ってもいい。組み合わせてもいい。

 

 

それらすべて、いまあるものへの問いかけだ。

 

 

さて、目の前にあるこれは、「ほんとうに『それ』なのだろうか?」

 

 

アートは、繰り返し、繰り返し、わたしたちの世界の境界を曖昧にしていく。

 

今まで普通だと思っていたそれを、当たり前だと感じていたそれを、端から壊していく。

 

 

「さて。これはなんだろうか?」



そして、その人にとっての「世界」を炙り出す。



アートとは、いつだってそこにある。



何かのきっかけで生まれたものではなく。



アートは、世界のすべてのことだ。



世界の捉え方の、味方の、ひとつの手法だ。



世界とは、アートであり、宗教であり、科学であり、物質であり、精神であり、有であり無だ。



わたしたちは、様々な視点で世界を見る。



「わたしたち」とはヒトだけではなく生き物のすべて。存在するものすべてのこと。


思想はシナプスの電気信号だというのは「現代の」科学が語る言葉に過ぎない。


無機物にも、もしかしたら思考があるのかもしれない。



世界の深淵も涯も無限で、そして世界の見方も無限だ。昨日の真実は今日の真実ではない。



そして、真実とはひとりひとりにとって異なる。



アートは、「その人にとっての世界の真実」を開陳する。



その「真実」に触れた者は、よりいっそう自分の真実に、本質に立ち返っていく。



アートとは、ほとんど、常に、常識や科学とは別の道を行く。だからこそ、それは啓示の役割を果たす。綻びの役割を果たす。



それらを持ってどうするか。



それは、その啓示を受けた者の、綻びを見つけた者の自由だ。たとえそのアートに込められた意図や意味があったとしても、アートは縛らない。



縛るのは、いつも自分だ。



そして、アートの語りかけを受け取るのも。




わたしたちは、アートを求めている、常に。



それはラスコーの壁画からも染み出してくるようだ。



わたしたちは、いつだって、世界を新たな目で見たい。



新たな世界の形を発見したい。その裡に潜む、自分にとっての本質を見出したいと思っているのだ。



アートは常に、問題提起であり逸脱だ。



存在するだけですべてのものはアートであるとも言えるけれど、「普通」のものに、わたしたちは「アート性」を見出さない。



ただ自分が自分の世界を生きているだけでは見えないものを、わたしたちはアートに求めている。



だからこそ、マルセル・デュシャンは「泉」でアートの本質をわたしたちの前に提示した。




アートとは、世界の意味づけだ。




それを形として表現することだ。




アーティストは、常に自分の世界の究極を、自分の世界の本質を探し求め、それを最もあるべき形によって表現することを求める。



そして、それらに触れる者もまた同じように、自分の世界の究極を、自分の世界の本質を探し求める。その表現方法が、科学なのか、宗教なのか、はたまた政治なのか、経済活動なのか。それだけの違いでしかない。



では、アート、とはなんだろうか。



わたしは思う。




きっと、




アートとは、このよのすべて、だ。



アートの起源

アートの起源