心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

わたしにとっての「書く」ということ。

わたしはわたしが書きたいように、思い浮かんだままに、触れたままに、湧き上がるままに、文章を書いているけれど。


それを例えばFacebookにそのまま載せたりblogのリンクを貼ったり様々な形で提示していて、その反応の違い、良し悪しなどをなんとなく見続けている。

そうして思うことは、多くの人が興味を持つコンテンツで文章を書いたり写真を撮ったりすることが、結局のところ社会のニーズを捉える、つまりお金になるのだろうということで。

本来ならそれを分析してその法則に則って文章を書くなり写真を撮るなりすればいいと思うのだけれど。

写真はともかくわたしの文章にはそこまでの自由度はなくて。ただ湧き上がるままに書いているのがこの文章だから、それを例えばお題を提示されて、これについて書いてみて、と頼まれたとしても、自分の心が震えなければそれについては書けないのだ。


もちろん、「文章」を書くことはできる。


けれど、そこにはわたしが最も大切にしたい「熱」が存在しないことになる。
わたしは、心の震えが伝わるような、その人の体温が伝わるような、その場の雰囲気が伝わるような、そんな文章を書きたいと思っているのだけれど、自分ではなく、自分以外の何かを起点にした時点で、それが消え去ってしまう。

もちろん、きっかけは自分以外であったとしても(むしろきっかけはほとんど外にある)自分の心が震えるのであればそれでいい。逆に、そうでなければ駄目なのだ。


そこが、わたしにとってもとても悩ましいところだ。


わたしは、食べるために文章を書きたいわけじゃない。伝えるために、届けるために文章を書きたい。そしてそれは、わたしの心が震えることである必要がある。

例えば、結果としてお金になったということではなくて、まさに「食べるため」に文章を書いたとしたら、そこに「熱」がなかったとしたら、わたしはこの世に何を生み出したのだろうか。何のために書いたのだろうかとそう思う。

わたしは、どこかで自分の文章を「純粋なもの」としていきたいと思っている。

自分の中から湧き上がる「熱」以外のものをそこに加えて、濁らせたくないと思っているのだ。

濁った文章を提示することは、自分に対しても、その対象となったひと、もの、ことに対しても冒涜であるような気すらする。


わたしは、わたしが生み出すものを大切にしたいと思っている。


もちろん、仕事ではそんなに純粋にすべてのことが出来るわけもなく。

けれどだからこそ、仕事ではないこの場所では、純粋に書いていたいとも思うのだ。


ずっと、これからの人生で、突然もらった贈り物のような文章と、どうやって付き合おうかを考えている。

もはや、文章を書くことはわたしのライフワークのようになっているけれど。それをお金に換えたいのか、その源泉にしたいのか、と問われると、どうしても疑問符が付く。

文章は書きたい。それが多くの人の目に留まって、そうしてわたしが心震えた素晴らしいひとが、ものが、ことが、よりたくさんの人に知られていくならば、それは本当に素晴らしく嬉しいことだと思う。

もちろん、それでお金が頂けたら、本当に嬉しく有難いことだと思う。

けれど。

わたしはいつも、たったひとりに伝えたい、届けたいと思っている。
それが、例えばそれを目にした誰かの心を震わせるなら、わたしにとってとても幸福なことだ。
それが、多ければ多いほど嬉しいけれど。けれど、何よりも大切なのは、その「誰かひとり」に届くこと。


そのためには、自分の内側から湧き出た、素直で純粋な想いでなければ、届かないのではないかとそう思うのだ。


そんなことを、ここ最近ずっと考えている。

自分は思っていたよりも、不器用で融通が利かないのだなとそんなことを思いながら。