心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

ゲイビー・ベイビー なにひとつ変わるところのない家族のかたち。

ゲイ=同性愛者のカップルに引き取られて、育てられている子どもたちがいる。


そんな、子どもたちの普通の日常を追ったドキュメンタリー。

カップルの当事者ではなくて、子どもたち自身が、家族をどう思っているか、どう感じているか、それを追った真実の記録。


この映画を観ている間、わたしは自分でも驚いたことに、それほどに心が揺さぶられることはなかった。


ただ、ああ、普通の、普通の家族の姿だな、と思った。


同性愛者に育てられたとしても、そうでなくても。
本当の両親に育てられたとしても、そうでなくても。


家族となった彼らが、自分たちは家族だ、と思っていたら、それは間違いなく家族なのだ。


もちろん、「普通」の家族の形が共通認識として、わたしたちの社会に根付いている以上、そこから外れていることによる悩み、苦しみは存在する。


なぜ、パパがふたりいるのか。
なぜ、ママがふたりいるのか。


必ず、必ず、その悩みと苦しみに、子どもたちは向き合う。

けれど、彼らはみんな、それでもこのふたりが、自分たちの両親なのだと強く確信する。

間違いなく、偽りなく、愛していると。

そして、何がおかしいのかと言う。
おかしいのは、それを認めない世界だと。
おかしいと言う人がいればぶっ飛ばす、と言う。

彼らにとって、教会の神父さまが言うことなんてどうでもいい。

ただ、自分たちを最も愛していてくれて、自分たちにいつだって寄り添ってくれる、その存在こそが全てだ。


間違っているとか、正しいのはどれだとか、そんなことは関係なく。


ただ、目の前にいてくれるパパたちが、ママたちこそが、自分にとっての真実。家族の姿なんだ。


それを、彼らは誰よりも知っている。


わたしたちの多くは、父親と母親がいてくれることが当然で、なぜ「わたしたちは家族なのか」ということは考えない。


なぜなら、家族とは所与のもので、疑うべき存在ではないからだ。


けれど、彼らにとって、家族とは、自分たちで作り上げていくもの。わたしたちは家族なのか、から始まり、わたしたちは家族だ、と強く確信して、そこからも丁寧に家族の絆を紡いでいくもの。


だからこそ、家族としての絆はきっと、彼らの方が強くて深い。

自分たちで考えて、選んで、そして大切にしていくと決断した家族の形。


この映画に出て来た子どもたちは、みな10代前半だ。


けれど、ひとりひとりが、自分の考えを、自分の意志を、はっきりと、しっかりと持っていた。


彼らは子どもだったけれど、子どもではなかった。


彼らはきっと、自分たちの家族を、自分自身が守っていくと、繋いでいくと、決意した子どもたち。
だからこそ、こんなにも彼らの語る姿が、彼らが立つ姿が、尊く見えるのだと、そう思う。


彼らは普通の子どもたちだ。

子どもらしい側面も、たくさんある。


けれど、彼らはひとりの人間だ。


悩み、苦しみ、迷い、自分の意志で、自分の頭で考えて、考えて。

そうして、自分の心で現実を選び取った。


そんな子どもたちだ。



キリスト教は、同性愛者を認めない。

そう言われている。

けれど、誤解を恐れずに言うのであれば、そもそも、この世に現実として存在する現象を「認めない」といった概念など存在しなかったのではないかと思うのだ。

この世すべてが神の創り給うたものなのだとしたら、そういうものですら、神の望みの果ての賜物。

自ら創り上げた世界を、自らが否定するなど、そんなことはきっとない。

「普通」とはすべて相対的なものでしかない。
いや、すべてのものが、ことが、何かと比較することによってその存在を許され、そのもの以外のものと区別されている。

だからこそ、あるひとつの概念が存在したとしたら、対立する概念が間違いなく、必要なのだ。

だからこそ、すべてのものは、ことは、現象は「存在を許されている」。



ただ、わたしたちが、それをどう捉えるか、どう受け取るか、それだけの、話。


わたしにとっては、この映画は、「普通の家族」の話だった、という、それだけの話。


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