心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

人生は、ひとりひとりが自分の速度で螺旋階段を昇ること。

友と語らう夜がある。


のんびりと、ただ語らう。

どこかに行って、何かをして。

めまぐるしく動くのも好きだけど。


こうして。


ただ、語らう。


そんな時間がとても大切だと思う。


お互い、何ひとつ否定しない。

ただ、自分はどう感じて、


これからどうするか。


それだけを、たんたんと。


のんびりゆっくりと語える、


そんな時間がどれだけ大切か。


ただ、のんびりと語らって、自分の、彼の、これからに想いを馳せる。

これからどうしようか。これからどうしたいのだろうか。ただ、それだけ。


わたしの心の中では、強く強く決まってしまっていることがあって。それは一般的には否定されることなのだけれども。それでも、やるんだ!というわけではなくて、やるんだなあって、ただ淡々と思っている。

一般的には否定されることなのに、わたしの周りに今いる人で、それを否定する人はまったくいなくて、それもまた面白い。誰ひとり、心配すらしない。楽しみだね、ワクワクするね、どうなるんだろうね、ってそんなことを言ってくれる。この夜ともに過ごした友人たちも。


わたしのいる世界も変わったな、と思う。


かつてはそうじゃなかった。わたしの周りの人たちが変わったということが、わたしが変わったということの、何よりもの証なのだろう。


変わりたい、と言うけれど、確かに変わったと思いながら、「わたし」としては何ひとつ変わっていないような気がするのが不思議だ。


それは、たぶん、ただ、たくさん持っていた、たくさん身につけてきた、「自分じゃないなにか」を手放したからだろう。

確かに、変わったけれど、「わたし」は「わたし」で、なにひとつ変わっていない。一番真ん中にある、わたしをわたしたらしめているもの、はなにひとつ損なわれていないのだ。


だから、「変わった」けど「変わってない」。


繰り返し、何度も思うことだけれど、生きることは、たくさんのものを得て、たくさんのものを手放して、なにもなかった、自分しか持っていなかった、あの場所に還ることだ。

生まれ落ちたばかりの赤ちゃんと、死ぬ間際の老人は同じだ。なにひとつ持たずに生まれ、なにひとつ持たずに死んでいく。

純粋な「わたし」であったあの頃。あの頃はそれに無自覚だった。けれど、数多のことを経験して、「わたし」とは何かをより強く、より深く、感じていく。

そして、確かに純粋な「わたし」であったあの頃よりも、よりいっそう「わたし」になって、死への道を歩む。

わたしたちは、螺旋階段を上っていく。

その道のりで、多くのものを手にし、途中でその重荷に足を止めたり、その荷物を足がかりにより早く上へ上へと登ったり。


最初、なにひとつ持てないくらい、自分しか通れないくらいの狭い階段だったそれは、上へ上へと昇るににつれて、また狭くなっていく。


自分ひとりしか通れないほどに。


周りにいるすべてのひとが、螺旋階段のどこにいるのか。それはそのひとそれぞれで、そこに良い悪いはない。判断もない。螺旋階段はひとりひとり違う。

ただ、そのひとは自分の螺旋階段のその場所にいるということ。

そして、同じ高さにいたら会うし話すけれど、そのうち高さが変わったら、距離が遠くなったら離れていく。そしてまた会うこともあるだろう。会わないこともあるだろう。


それが、人生なのだと思うのだ。

人と人のご縁であり、繋がりなのだと思うのだ。

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