心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

新嘗祭。予定外の再会。ただ受け入れてくれる場所の大切さ。

新嘗祭

 

勤労感謝の日

 

元々は、新穀を得たことを神さまに感謝するものだったという。

日本人は、八百万の神と共に生きてきた。五穀の恵みは自らの力だけではなく、天からの恵みだった。だからこそ、今年も一年生き延びるために十分な新穀を与えてくれたことを神に感謝し、それからその恵みを頂くのだ。

 

わたしは特に神道に詳しいわけではない。

けれど、今年は新嘗祭をきちんとお祝いしたかった。

 

わたしは自ら耕さない。食物を料理する職業に従事してもいない。

だから、わたしが日々ごはんを食べて、それによって命を繋いで生きていけるのは、私以外にそれらをしている人がいるから。

 

それらをしてくれる人がいなければ、わたしは今日食べる米すらないのだ。

 

そんなことを考えるようになって、わたしが生きる糧を今年も得られることを、感謝しておきたかったのだ、なんとなく。

 

思いつくまま気が向くままに、まず氏神様へ。東京大神宮を経た後、靖国神社へ。

 

靖国神社には行くつもりはなかった。

けれど、東京大神宮にお参りした後、足は靖国神社へ向かっていた。

 

靖国神社はわたしにとって、とても特別な場所だ。

わたしの最も辛い時期に、寄り添ってくれた神社。

わたしにとっては、戦友のような、そんな神社だ。

 

久しぶりに、この場所に来た。以前来たときは閉門していた。

久しぶりに、この場所で手を合わせた自分はかつてとは違う。

 

閉じた門の前で、真夜中に涙したことを思い出す。

辛くてどうしようもなくて気づいたらここにいた。

 

何故この神社だったのかはわからない。

何時間も歩いて、足が棒になっていて。

それでもこの場所に来たいと思った夜。

 

そんな夜もあった。

今はただ懐かしい。

 

あの時からわたしは大きく変わった。

全く違う心境で、ここに立っている。

 

あの時間を共に過ごしてくれたことを、

あの時間を優しく支えてくれたことを、

 

わたしはとても感謝している。

 

神社が何かしてくれるわけではない。

ただ、そこにあるだけだ。

 

あの時も、どうにかしてくれと頼ったわけではない。

お守りも買わず、祈祷もせず、たまに静かに手を合わせるだけ。

 

ただ、どうしようもなく辛かった時に、泣く場所があった。

 

それだけで、どれほど救われただろうかと思うのだ。

 

別に、なんでもいいのだ。

でも、神社やお寺は、すべてを赦してくれるような気がする。

すべてを受け入れて、洗い流して、次へ進ませてくれる気がする。

 

自分の心を、どんな形でもいい、リセットしてくれる場所。

 

祝詞も成り立ちも礼儀も作法もわからなくても。

それだけでその場所がある価値があるのではないか。

 

 

そんなことを思う。

 

 

新穀の恵みを感謝するために訪れて、それよりも感謝したのは、

 

 

こういう場があることだった。

 

 

誰に話を聞いてもらうわけでもなく。

祈祷やお守りに頼るわけでも、ない。

 

 

それでもあるだけで、いい。

 

 

そんな場所が日本にあるということは。

 

 

それだけで素晴らしいことではないだろうか。


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