心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

杉本博司 「苔のむすまで」 あとがきが教えてくれたわたしの進むべき道。

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この本の後書きを読んで、わたしは驚いた。
そこには紛うことなく、わたしがいたからだ。
杉本氏のような巨匠とわたしを比べるべくもない。
彼と自分を同じ地平に置くことすら、おこがましい。


けれど、わたしは彼が書く後書きの中に自分の姿を見た。


わたしは、自分が文章を書く人間だとは思ってもいなかった。


文章を書き始めたその日も、文章を書くことを全く想定していなかった。
わたしは、ただ言われるがままに、むしろ半ば事故のように書き始めたのだ。


わたしはずっと、仕事の資料を作るために文章を書いていた。

その文章は、起承転結があり、前提があり、課題があり、方策の提示があった。


それは、最初に下調べをひたすらにして、そうして構成を考えて、何時間もかけて作り上げるものだった。


頭で考えて、何度も試行錯誤して作り上げるものだった。



けれど、あの日は違った。
論理も筋道も全く関係なく、ただ、湧き上がるままに、指が滑るままに書いたのだ。


それがわたしと文章との出会いだった。


わたしは出来上がったものに驚いた。


それは、何ひとつ構成も下書きもせず、ただ思うがままに書いたのに、きちんと文章の形になっていたからだ。


そして、更に驚いたのは、そのわたしが書いた文章を、多くの友人が賞賛してくれたことだ。


わたしが尊敬してやまないその人が、わたしには文章を書く才能がある、と言ってくれたのとだ。


わたしは戸惑った。ただただ、この目の前に起こっている現実を受け取ることに、右往左往した。


わたしが誰よりも一番、自分の身の上に起こったことを信じることが出来なかった。


わたしはわたしを信じてはいなかったけれど、わたしが尊敬する大好きな人たちの言葉を信じた。


そうしてわたしは文章を書き続けた。


かつて何時間もかかっていた文章を数十分で書けるようになっていた。

文章自体もどんどん長くなり、長い文章を書くことに全く抵抗がなくなった。

いや、気がついたらそれだけの長さになっているのだった。



わたしは、文章を学んだことはない。学ぼうと思ったことはあったが、きっとこれからも学ばないだろう。


もちろん、日々触れる先達たちの美しい文章に、友人たちの素晴らしい生き方に、尊敬する人々のあり方に、毎日毎瞬学び続けるだろう。


けれど。


文章の書き方、という技巧的な部分を学ぶことはないように思う。


わたしにとって、文章は頭で考えるものではない。技巧を凝らすものでもない。



ただ、自分の裡から湧き上がってくるもの。



これまで生きてきた中で、自分の中に沈殿してきた澱から染み出してくるものだ。



わたしは、ただ透明なフィルターでありたい。



どんなものを見ても、どんなものを感じても、どんなひとに会っても、どんなひとと過ごしても。


思考を排し、ただ思うままに、感じるままに、それらすべてを自分という透明なフィルターを通して、美しく本質的な姿でもう一度この世に現したいのだ。


わたしは、わたしの目に映る素晴らしいものたちを、文章という形で、美しく本質的な姿で現し、それを拡散する役割を果たしたい。


少しでも、素晴らしき人々のこころが、表現が、世界の誰かのこころに届くように。



少しでも、世界が美しく幸福なものになるように。



それが、わたしがこの世で成し遂げたいことなのだ。