心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

大地之節供 旧暦10月10日。死と再生。生命の始まりたる、生命の終わりたる、水の節供。

とつきとおか。

とおとたらり。

いちねんのおわり。


そして。


いのちうまれるひ。



旧暦10月10日は一年の終わりの日。



人が産まれるまでの時も十月十日。



この日は、この夜は、この時間は。




この一年をかけて耕してきた大地に、種を蒔く日。


ひとりひとりの身体という大地に、種を蒔く日だ。



はじめはひとつの疑問から始まったという。


1月1日、3月3日…天の節供はあるのに、地の節供はない。



天と地は一揃い。

天がなければ地はなく、地がなければ天はない。 


生と死は一揃い。

死を思えば生は深まり、死に近づけば生は輝く。

 


すべては表裏一体で。

美しく輝く光には深くて暗い闇が寄り添うもの。



天の節供が喪われていく今だからこそ、それと表裏をなす地の節供を。



地を耕すことで、天はより澄んでゆく。



いや、もしかしたら不安定であの世への引きが強くなる奇数月だけではなく、安定してるはずの偶数月にもお祭りが必要なほどに。



今のこの世は不安定なのかもしれない。



偶数月に開催されてきた大地のお祭りもこの日で終わり。


来年からは姿を変えるこの会に、最後の最後で参加できたことを、本当に、心から嬉しく、また、有難く思う。


この日この夜この場所に来ることは、ずっと前から決まっていたような気さえした。



死と再生の節供



テーマは水。



水を得て命は生まれ、水を喪い命は消える。



万物の始まりは火だとも言うけれど、生命の始まりは間違いなく水。



終わりと、そして次への始まりにふさわしい。



まずは清めの儀式。



祝詞があげられ。



般若心経を唱え。



真言を捧げて。



神がこの場に降りてくる。



東京タワーを、目の前に。



高い東京タワーの対となる、



深い深い湖の、水の、底へ。



みずのくらやみのなかで、

静かに、献奏が、始まる。




アボリジニの祈りの楽器。ディジュリドゥの音が大地を震わせる。



まるで今いる場所が震えるような、地の底から響く、祈りの音。



それは、地球が生まれる音だった。



火山が噴火し、大地が鳴動し、響きあう音。



それは決して激しくも恐ろしくもなく、ただ原初の自然が織り成す日々の出来事。



ディジュリドゥに寄り添うように、原始の息吹を吹き込むのは素朴な笛の音。



その音のひとつひとつは原始の生命の煌めきだった。



海の中に原始の生命が生まれ、陸にはシダ植物が芽吹き、賑やかになっていく大地。


音を聞いているだけなのに、まるで地球が生まれて生きてきた、その歴史を目の当たりにしているかのようだった。


笙の音色があわさって、音はさらに煌めき人々の鮮やかな生活を、ざわめきを、豊かな繋がりを見せてくれる。


壮大な、地球交響曲。それらがたった3人で行われていることも、そしてわたしたちがいる場所が、東京タワーの麓のマンションの一室だということも、ひととき忘れ去った。


わたしたちは、地球の命の渦の中にいた。


それは、地球の、植物の、原始生命の、動物の、ヒトの、命が生まれるその時々への祝福の歌だった。


新たに生まれて生きてそして消えてまた新たに生まれて生きていく。地球の歴史のすべては生と死の繰り返しだった。常に祝い、常に悼む。その繰り返し。それはただ命が巡るだけのこと。



その光景を、わたしはここで聴いていた。



その音を聴いているだけで、その音に身を委ねるだけで、まったく違う世界がそこに広がった。



この音を聴き、きっとひとりひとりが自分にとっての生と死をその先に視ただろう。どれが正解だということはない。ただ、自分にとってのそれを感じることが出来た時間。



それはどんなにか素晴らしいことだっただろうか。


ひとりひとりが、自分の死生観を観ること。


それは、自分の人生の来し方行く末を見ることだ。



まるで一瞬の陽炎のような、永遠のざわめきのような、そんな時間が終わりを迎え。



井戸さんがゆっくりと死と再生について語り始める。

彼女の話のすべてに命が宿っていて。彼女の語りはすべて彼女の生きたその時間から出てくるものなのだと、そんな気すらした。


彼女の言葉は情報ではなく、彼女自身がその世界に入り込み、実際にその場所に行き、その地の人に触れ、自分自身で咀嚼して自分の身としたもの。


彼女の言葉は彼女の内側から生まれていた。しかも、自由に。彼女はこの場のこの時の雰囲気を感じて湧き上がったその言葉を紡いでいく。


きっと同じテーマで話したとしても、この夜とは全く違う話が彼女の口から語られるかもしれない。


それほどまでに、彼女の言葉は生きていた。


彼女の語る日本の物語。かつてといまと、そしてこれからと。


わたしたちは、ひとりひとりが太古の昔から脈々と繋がる、そして今この地球上にあるすべてと繋がって生きている、その繋がりの中に生きるひとつの生命だということの証だ。


父が、母が、祖父が、祖母が、そして彼らに繋がる数多のご先祖様たちが。

子が、兄弟が、友が、同僚が、そして彼らに自分に繋がる数多の人たちが。


その繋がりがなければ、「わたし」という個体はここにはいない。生きることが、生き続けることが出来ない。

「わたし」という個体がここに存在するということそのものが、奇跡の証なのだ。


「わたし」という個体はすべてが繋がったその先に生まれたもの。「わたし」ひとりでわたしの身体を作ることは出来ない。何千年も何億年もかけて練り上げられた螺旋の結果が今この地にいる一人一人の姿なのだ。


そしてまた、「わたし」という個体はそれだけでは生存できない。生まれ落ちたそのあとは、父の、母の庇護を受け、成長したその後も、先人たちが築き上げ、残していった叡智の中で生きる。



死と再生。


ひとつのものが死に、ひとつのものがその死を内包して再生する。新たに生まれる。


すべてからそれを、感じた時間だった。



この日に提供された和菓子からも、お茶からも。

すべてが、この日のこの時間の中で調和していたのだ。


写真をたくさん撮ったけれど、この日のこの時間にふさわしい写真はなかった。表現できるものではなかった。


写真の限界をも感じた時間だった。


わたしたちは、ひとりひとりが持つ表現で、一体何を伝えるのだろうか。

一体何を伝えられるのだろうか。どこまで、行けるのだろうか。


そんなことを、感じた時間でもあった。



素晴らしい時間をくれたすべてのひとに。


この日ここに招いてくれた、友人たちに。


本当に本当にありがとう。

かけがえのない時間をもらいました。


この日いただいた種は。

大切に、しっかりと育てていきます。


ありがとうございます。


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