心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

写真と記憶。とどめること、わすれること。

写真なんて必要ない、記憶に残っていればそれでいい、と思っていた。

けれど、記憶は薄れる。


写真はその時の時間の結晶で記憶の欠片だ。


過ごした時間を完全に忘れることはないけれど、写真があるからこそ蘇る時間もある。


従姉妹の結婚式で、従姉妹の隣に立つ祖母の写真を見て、ああ、祖母は彼女の花嫁姿を見ることは叶わなかったな、と思う。


祖母のことを思い、そうして両親のことを考えた。

カメラを向けた時、母は冗談めかして遺影にしてね、と言ったけれど。

もう、わたしたちはその日が来ることを視野に入れる年齢になったのだ。


東京と兵庫で離れて暮らして、あと何回、何時間一緒に過ごせるだろうか。

残された時間は、想像以上に、短い。


会うたびに、父も母も小さくなっている気がする。

確実に、年齢を重ねているのだと気付かされる。


気が付いたら、終わりの日は目の前にあるのだろう。

当たり前に来ると思っていた明日は、前触れもなくいきなり切断される。


その日がいつ来てもいいように、ふたりの姿を写真に収めておきたい、そんなことを思った。

あの日のあの時間を愛おしめるように、その瞬間を、その時の表情を、切り取っておきたい。


ふたりの、自然な表情、なんでもない他愛もない日常とか、そういったもの。


そのためにも、空気みたいに写真を撮りたいな、と思う。ありのままのその空気まで閉じ込められるように。

どんなにありふれた瞬間も、過ぎ去ったらもう二度と出逢えないものだから、その瞬間を逃さないようにしたい、とも。


死を想うって不謹慎な気がするけれど、死を想うからこそ、今目の前の瞬間を大切にしたいなと思う。


写真を撮り始めてから、カメラにいろんなことを教えてもらっている気がする。

技術とかは全然上達していないのだけれど。

写真を撮るということは、対象と真摯に向き合うということの一つの形なのかもしれない。

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