読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

Cooked 人間は料理をする 〜火〜 vol.1

f:id:kayamy:20161106231115j:plain


ヒト以外の動物で、料理をする者はいない。
ヒト以外の動物は、起きている時間の多くを咀嚼に費やす。

ゴリラの体躯は胴が大きく膨張している。これは、巨大な消化器官をその身に収めるためだ。

食物を咀嚼するために顎も歯も大きく発達し、その分頭蓋骨に収まる脳の容積は小さくなった。



料理をする、ということはヒトにとっての進化の鍵だった。


わたしたちの生活に決して欠くことのできないもの。

地球上のどこに暮らしていても、どんな文化を持っていても、人種がどうであれ、性別がどうであれ、年齢がどうであれ。

ヒトである限り、離れえないもの。


それが、料理だ。


すでにわたしたちには生の食材を消化するための消化器官も、消化を促せるように咀嚼するための顎も歯もない。
けれど、多量にエネルギーを必要とする大きな脳だけはあるのだ。


料理なくしてヒトは生きることはできない。


そのヒトにとって不可欠な料理こそが、世界のヒトとヒトを繋ぐ。


料理はヒトにとって原始の炎であり、命を繋ぐ光であり、心を結ぶ灯し火だ。



料理は、火から始まった。


料理と、人と。


それを読み解くのが「Cooked」という映画だ。



オーストラリアのアボリジニたち。先住民族の彼らも、今やわたしたちと同じような生活様式を持つ。

ただひとつ、彼らは原始の火への感謝を、生き物の命を屠ることによって生きていることへの感謝を忘れない。


彼らは週末に狩りに出る。
男性も、女性も。

女性は土の中にいるオオトカゲを狩る。
土の上を棒でたたいてオオトカゲがいる場所を探し当て、そうして土の中にいるオオトカゲを捕獲したら、その手足を折る。


そして、その身をそのまま火にくべる。


それは、残酷だろうか。


トカゲの足を折る時に、わたしの心にも、ちくりと痛みが過ぎった。


けれど、わたしは今それを目にしているからそう思っただけで。わたしが見ていない場所で、わたしが口にする肉料理のために、どこかでだれかが毎日動物たちを殺しているのだ。


わたしたちは、自分で狩りをしなくなり、自分で彼らを殺さなくなり、自分でその肉の生きていた頃の姿を見なくなって、どんどん麻痺していった。

肉の切れ端を見て、その肉が生きていた頃の姿を、死ぬ間際の断末魔の叫びを、想像することはない。ただ、美味しいねと言って、口に入れて味わうだけだ。

目の前にある皿の上に並んだすべてのものは、かつて生きていた。それは動物ではなく植物でも同じ。
刃物で命を絶たれた動物たちも、根を抜かれて命を絶たれた植物たちも、わたしたちと同じ地平線上で生きていた。

それが、一瞬にして食べる者と食べられる者に分かれた。どちらが偉くてどちらが劣っているというわけではなく、ただ彼らは無意識のうちにヒトに食べられることを選び、わたしたちは無意識のうちに彼らを食べることを選んだ。


それだけのことだ。


わたしたちは、命を食べて生きている。

食べることは、食べられる者の命をその身に宿すこと。

食べることにより彼らの命を受け継いで、わたしたちは自分の命を繋ぐ。 


わたしたちは、自分の身だけで生きてはいない。

わたしたちは、他者の命で自分の命を生きている。

そして、わたしたちはより多くの命をよりよい形で摂取できるように、「料理」という形を編み出した。


それは、ある意味残酷で、ある意味愛だった。


そこにある命を、ただそのまま受け取るのではなくて、自らの手で時間と労力をかけて「料理」する。

それは、その命の魅力を知らなければ出来ないこと。その命を、食べるために、繋ぐために、生まれ変わらせる。


それが、料理なのかもしれない。


誰かのために、自分のために、丁寧に、心を込めて感謝して、美味しくなるように、その命が持つ素晴らしさを、可能性を、よりいっそう輝かせることが出来るように、料理する。


命を受け継ぐことは同じ。 


わたしたちはすべてが食物連鎖の中に生きていて、誰もが誰かの命を糧に生きている。


それは疑いようもない事実。紛れもない事実。

その断末魔の叫びが聞こえない植物も動物と同じ。生きているのだ、すべてのものは。


その命を頂くときに、「料理」という一手間をかける。


それは、とてもとても尊いことのような気がするのだ。

映画はこちらから。

原作本はこちらから。

人間は料理をする・上: 火と水

人間は料理をする・上: 火と水