語ることは、目の前にいる誰かの世界に新たな命を吹き込むこと。
ヒシクイ。
聞き慣れぬ名前の鳥。
美しい姿でもなく、目立つ姿でもない彼らは、長い長い距離を飛ぶ渡り鳥だ。
彼らは、サハリンまでの旅の途中で、北海道に立ち寄る。
力強く、雄々しく、そして長い長い距離を渡るために磨き抜かれたその肉体。
けれどそれだけでは、ひとりだけではこの距離を渡ることはできない。彼らは長い旅を無事に終えるために、編隊を組む。少しでも体力を保たせるために。少しでも多くの者が目的地に辿り着けるように。
ヒシクイのことを話してくれた安藤さんは、彼らの姿を見るたびに、感動で心が震えるという。
その身ひとつでサハリンまでの旅をする、彼らのその旅路の合間のほんのわずかな時間の邂逅。
ひとつの羽ばたきが、前に進むその姿が、彼らの命を懸けた行動の積み重ねであり、ここにいることそのものが、奇跡。
美しく、考え抜かれた陣形で、遠く遠くのあの地をめざす。寒さがその身を灼こうとも、痛みがその身を千切ろうとも。それでも、あの地を目指してまっすぐに。
ただただ、あの地に辿り着く未来を信じて飛ぶ姿。
何枚も、何枚も。
安藤さんはヒシクイの写真を見せてくれた。
それだけ、ヒシクイの飛ぶ姿は安藤さんの心を震わせるのだ。
鴨に似た地味な鳥、と思えた彼らの姿が、安藤さんの写真を、言葉を通すと神々しくすら思えてくる。
彼らの瞳の先を思い、彼らから目が離せなくなる。
これが、世界を伝えることなのだとそう思う。
安藤さんからこの話を聞かなければ、わたしはヒシクイという鳥を知ることもなかっただろう。
例え知ったとしても、ああ、そんな鳥がいるんだね、とそれだけのこととしてすぐに忘れただろう。
けれど、安藤さんはヒシクイの世界を語ってくれた。
ヒシクイの物語を魅せてくれた。
それを聞いたわたしたちの中には、ただの渡り鳥のうちのひとつとしてではなく、確かにあの空を羽ばたくヒシクイの姿が、すぐ隣の現実として迫ってくる。
語るということは、その話を聞いているひとに、新たな世界を伝えるということだ。
知識として知っているということだけではない、生の、自分のすぐ隣に息づいているものとしての、温度を伝えるということだ。
知っているだけ、聞いたことがあるだけでは、永遠にわたしたちの人生には関わっては来ない。
ただ流れゆくだけで、消費されるだけで、決してわたしたちの人生に彩りを添えてくれるわけではない。
その知識に、いのちを吹き込むこと。
触れられるほどに近くに感じさせること。
それが、語ることの力だ。
あふれるほどの想いを込めて語ること。
それが、ただの記号だった彼らにいのちを吹き込む。
彼らの姿がみずみずしく輝き、羽ばたき出す。
その彼らの瞳の先を見たいと思う。その息づかいを感じたいと思う。
それが、
語ること。
伝えること。
誰かに何かを語るとき、わたしたちは目の前にいる誰かの世界に、新たにいのちを吹き込むことが出来ているだろうか。
違う世界の見方を伝えられているだろうか。
語るうちに、誰かの世界の中に芽吹く何かを見るだろうか。
自分が語る言葉に命は宿っているか。
語る誰かの世界に新たな命を宿したか。
何かを語るということの本質は、そういうことなのかと。
そんなことを学ばせてもらった、気づかせてもらった時間でした。
安藤さん、本当に、本当にありがとうございます。