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心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

誰かを感動させるには、何よりも自分自身が感動すること。それは、その誰かのためにも、自分のためにも。

誰かを感動させるためには。


まず、自分が何よりも感動していなければ、ならない。

いつまででも夢中になれる大好きなこと。
それを仕事にして、プロになって、どうしても失いがちなのは、そのものに感動する心。

けれど、その感動する心がなければ、誰かを感動させることなど出来はしないのだ。


安藤さんのカメラのワークショップで教えてもらったこと。


わたしが安藤さんを尊敬する、その一番凄いと思うところのひとつ。
安藤さんは普段は北海道東部でネイチャーガイドをしている。
何年も、何十年も同じ場所でガイドをして。同じ道を通って、同じものを見て。それでも、毎日、毎瞬、安藤さんは感動し続けている。

同じ道を通って、同じものを見ても。その景色は、その木々の、その花の、今の姿はその時限り。
たとえ同じ動物を見たとしても。そのひとつひとつの出会いは違う。出会う相手もそのたびに違う。


それを知っているからこそ、それを見つけられるからこそ、何度でも、何度でも感動できる。


自分が大好きなことをやっていて、それに感動することが出来なくなれば、心震えることが出来なくなれば、それはひとつの終わりなのだと思う。


自分が心震えないものを、自分の心が素晴らしいと思えないものを、誰かに提供したとして、それが誰かの心を本当に動かすなんて、そんなことはないのだ。


そして何より、自分の心がイエスと言わないもので、誰かが喜んでくれたとしても。それは嬉しいことだろうか。心から、自分が喜べるだろうか。


自分の心にウソをついて、誰かに喜んでもらって、本当はどこか心がザワザワするのにそれを抑えて自分も嬉しいのだ、なんてそんなことにして。


何度も何重にもウソを重ねてその先に。


どこかで心がからっぽになったような、虚しさに襲われたりしないだろうか。空虚なウソを心に詰めて、それで満たされるなんて、そんなことはありはしないのだ。


もしかしたら、自分の心が感動していなくても、誰かの心を震わせることが出来るかもしれない。


けれど、その時、その心震えた誰かは、いったい表現されたその作品のどこを見ているのだろう。何に感動したのだろう。

心がこもっていないその作品に、心震える誰かがいたのだとしたら。きっとそれは違う場所を見ているのだ。
その作品を超えたその先にある、全く違うものから感動を自分で探して受け取っているのだ。


それは、自分の作品の成果だと、そんな風に言えるだろうか。それを心から喜ぶことが出来るだろうか。


それが、きっと自分が感動しないままに作り上げた作品への、賞賛を受け取れない理由だ。


誰しもが、自分自身を見ていて欲しいから。


誰かが何かを表現したいと素直に心からそう思う時、それはたとえ表現方法が何であれ、その人が心震えたその証。

その心震えたその先に、生み出されるものがあるとして。

生み出されたそのもので、感動や幸せの輪が広がるのだとしたら。

そしてその輪が波紋が、それを生み出したその人に、帰ってくるのだとしたら。


それこそが、そのものに関わったすべての人が幸せになる形だと。誰もがその先に続く螺旋の中にいることができるのだと。


そう思うのだ。


だからこそ。
自分が感動したその瞬間に、作品が生み出されることが、どうしてもどうしても欠かせない、大切な要素なのだと。


だから、誰かのためにも、自分のためにも、自分の心が感動すること、を大切にしていくのだと。それを改めて誓った夜だった。


この日も、素晴らしいお話を、本当に本当にありがとうございます。

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