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心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

伊勢への旅路。与えてくれたものと受け取ったもの。

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最初は、友人に会うために名古屋へ行って、そうして熱田神宮にお詣りして帰るつもりだった。


でも、友人に会ったその夜に、明日どこに行きたい?と聞かれて。

伊勢神宮、と突然浮かんだ。

そんなつもりは全くなかったのに。

名古屋にいるなら、と思ったのは事実だ。
でも、名古屋と伊勢神宮がどれだけ離れているかなんて考えなかった。

ただ、わたしは今、伊勢神宮に行く時なのだと思った。


今の場所を離れる選択をして、今からまさに変わろうとしているこの時に。

自分の選択を、自分の進む方向を、自分の中に刻み込むために。

わたしにとって、神社への参拝はお願い事をすることではない。

ただただ、すべてのことに感謝し、そしてこれから自分がどうするかを誓うこと。


神社のご神体は鏡。


そこには、目の前に立って祈るわたしの姿が写っているだけだ。

祈る対象は神じゃない。わたし自身。


だから、わたしは願わない。


ただ、誓う。


その誓いを強くするために、そして雑念を払拭するために、神社へ詣る。


わたしが新たなスタートを切ると決めたこのタイミングで、詣る場所として伊勢神宮はこれ以上にない場所。

いつか、と思って2年が経った。


時は満ちたのだ。


友人は共には行けない、と言った。

わたしはどこかでひとりだけで詣りたいと思っていた。

だから、それでよかったのだと思う。


最終的に、決断するのも行動するのも自分でしかない。

どんなに仲が良くても、どんなに近くにいても、どんなに共にいる時間が長くても、誰かの決断を代わりにすることはできないし、誰かの代わりにその体を動かすこともできない。


だから、ひとりで行けたのは良かった。


翌日夕方に伊勢に着いてから回った外宮さん。最後に回った瀧原宮さん。

最初と最後だけ、誰かと共にいた。

それもまた、とても素敵なことな気がした。

わたしはきっと、どこで何をしていたとしても、誰かと共に歩むんだろうなあとそんなことを思う。


わたしには、何かが見えるわけではない。

そして、伊勢神宮には何度か足を運んだことがある。


それでも、今回訪れた伊勢神宮は、今までと全く違う気がした。

初めて訪れる場所のような気さえした。


それがまた、新たなスタート地点に立つと決めたわたしにふさわしい空気のような気がした。


友人とともに回った外宮さん。

翌日朝5時に起床してから、もう一度、外宮さんから始めて、土宮さん、風宮さん、多賀宮さん、月夜見宮さん、内宮さん、荒祭宮さん、風日祈宮さん、月読宮さん、倭姫宮さん、瀧原宮さんと巡っていく。

寄り道をせずに、ただひたすらに神宮をめぐる。

おかげ横丁も通ったけれど、立ち寄ろうとは思わなかった。

今回の旅は、会えるだけの神宮さんに会いにいくことが目的だったから。

こんなに歩くとは思っていなかったから、リュックで来たわけではなく、腕にも指にも持ち手が食い込んだ。

足が棒になって手に持つ荷物がびっくりするほど重く感じても、それでも歩みを止める気にはならなかった。


廻れるだけ、廻りたい。
会えるだけ、会いたい。


なぜそんなにも強く思ったのかはわからなかったけれど、それでも、照りつける太陽の下でふらふらになりながら、次の神宮を目指した。


わたしは祈らない。願わない。

けれど、ひとつひとつの神宮が、わたしにメッセージをくれているような気がした。

これから歩む道のりへ向けてのメッセージ。

ただわたしの心に浮かんだだけで、神宮からのメッセージだなんて勝手な思い込みかもしれないけれど。

それでも、次への一歩を踏み出そうとするわたしに対して、エールを送ってくれているような気がしたのだ。


ひとつひとつの神宮に会いに行くたびに、とても大切なものをもらっている気がした。

早朝からひとりで参拝を始めたから、ただただ静かに、思う存分お詣りをすることができた。


わたしはこの地で、たくさんのものを受け取った。
きっと、たくさんのものを与えてくれたのだと思う。


心と体がすうっと澄んで軽くなって、
それと同時に熱いほどの力を感じる。


きっと、きちんと受け取れたのだ。
なにひとつ証明なんて出来ないけれど、
そう考えた方が、人生は面白いし楽しい。


伊勢の旅は奇跡に満ちていた。
今振り返ると、伊勢に行く前から奇跡は始まっていた。


人生は面白い。
生きるって楽しい。


つづく。