心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

豊かな時間は彼らとともに。過ごせる時間を、出会えた奇跡に感謝を。【加筆】

幸せな一日だった。

奇跡のような一日だった。

そんな風に思える日が人生に何度あるだろう。


前を歩く友人の後ろ姿を見ているだけで、わたしはなんて幸せなのだろうと思う。

彼らと出会えたこと。

今も繋がっていること。

こうして過ごせていること。


全部全部、あの日のあの決断から始まって、そうして今日という日に繋がっている。

この日、何度も何度も彼らの後ろ姿に、彼らと出会えたことに感謝した。

こんなにも素敵な人たちと繋がれていることに感謝した。

ただただ幸せだなあと思う。


そんな風に思える出会いが人生に何度あるだろう。


それがあったということそのものに、感謝したかった。


彼らと話していると、言葉がいらない。

もちろん、他愛もないことも話すし、じっくりしっかり会話もする。


けれど、ただ何も語らずともに過ごしているだけでも、とてもとても満たされるのだ。


ただ、そばにいるだけで。

それだけで、なんだか幸せだと思う。


そんな関係性があるということに、幸せだというそれ以外の言葉が見つからない。


お昼に食べたお茶漬け。

家でひとりで食べるなら、さらさらとかきこむだけのもの。

丁寧に手を合わせ、丁寧にごまをすり、丁寧に混ぜ合わせる。

きらきらしたごはん粒の上に、そっと鯛の切り身を置いて、ゆっくりゆっくり、噛みしめるように味わって食べる。

ほとんど話すことなく、ひとりひとりが鯛とごはんと薬味の絶妙な調和の世界にいた。 

ぴりりとした辛さがちょうどいいアクセントになる、考え尽くされたわさびの量。
しっかり味は付いているのに鯛のあっさりとした瑞々しい風味を損なわないゴマだれ。

鯛と、ごはんと、薬味と、漬物と、お茶。

それだけ。

それだけなのに、ゆっくり、ゆっくりと、何回にも分けて、ただただ存分に味わう。


なんて豊かで貴重な時間だろうか、と思う。


美味しいごはんを、ただただゆっくりと、思うままに、何も気にせず、でもその美味しさを共有できる関係性の中で味わう。


そんな風に、時間を過ごせることがとても幸せだった。


朝、カフェで奇跡のような話を聞いて、奇跡のような巡り合わせに感謝して。

昼、奇跡のように美味しい鯛茶漬けを食べて。

夕、素晴らしい気が満ち満ちた奇跡のような寺と神社にお詣りをして。

夜、異国に来たかのような空間で、奇跡のように美味しいカレーを食べて。


まるで、二泊三日の旅行に来たかのような、濃密で、幸福で、満ち足りた時間を過ごした。


すべての人の時間は平等だ、と言われる。


けれど、それは違う。


まるで三日分かと思われるような時間を過ごす人と、半日に満たないような時間を過ごす人とでは、同じ24時間の重みが全く違う。

一日を三日のごとく過ごす人の一週間は一月分になり、一日を半日のごとく過ごす人の一週間は、たった三日になる。


その、積み重ねが一生になる。


今日一日は、どれほどの密度と幸福の中にあったか。


今この一瞬を、どんな想いと姿勢で過ごしているか。


それこそが、時間の重み。


一日は、単に一日ではない。


数字の上の、文字の上の「一日」に意味はない。


今この一瞬を、どんな想いで、どんな姿勢で、どんな密度で、どんな感情とともに過ごしているか。


時間は相対的だ。

決して、平等ではない。

いや、元々は平等だった。

けれど、その時間という器に何を入れるか。

それは自分自身の在り方であり生き方でしかない。


時間という器は伸縮する。

いつでも誰にとっても形の変わらない普遍の、不変のものではない。

いくらでも、どれだけでも、変えられるものなのだ。



この日のような一日が、わたしの人生においてどれだけあるか。

それが、わたしの人生の質を決める。


時間は相対的で、可変のもの。

そんなことを教えてもらった時間でした。


いつも、いつも、いつも。
本当に、本当にありがとう。

出会えて、過ごせて、わたしはとても幸せです。


昨晩書いたけれど、伝えきれてない、と思ったので書き直してみました。


竹葉亭

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