読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

カメラのシャッターを切ることの意味。今とかつてと失ったもの。

星野道夫さんの写真展に行ってふと思ったことがある。


彼の時代は、カメラはデジタルではなくてフィルムだった。

遠くアラスカの地で野営をしてシャッターを切る。
けれど、すぐに写真を確認できるわけでは、ない。
撮れているかどうかがわかるのは何日も後のこと。

それでも、今目の前にある奇跡がそのフィルムに映っていると祈りを込めて、シャッターを切るのだ。

シャッターを切るということは、祈りだった。

この、自分が心震えたこの光景を、どうかどうか、この手に収めさせてくださいと。
どうかどうか、この一瞬を、切り取らせてくださいと。

自然の中に存在する、すべての瞬間は奇跡。

その中で、自分が心震えたその瞬間を、自分の目だけではなくて、カメラのファインダーの中に収めたいと思うのは、ただ流れゆく自然への冒涜なのかもしれない。ヒトのエゴなのかもしれない。

けれど、わたしたちはわたしたちが手にした表現方法でもって、どうしてもどうしてもその心震えたその瞬間を、大切な誰かに伝えたくてたまらないのだ。

それが写真でなくても。絵でも、詩でも、文章でも。

すべてがその瞬間に生まれて消えて流れゆく自然の中で、それをとどめたいと思うのはヒトだけだろうか。

それは、ヒトの業なのかもしれない。
それでも、わたしたちは伝えたい。伝えたいのだ。

それは、すぐそばにいる大切な人かもしれない。
過去の、未来の、今の大切な自分かもしれない。
未だ会っていない大切な人たち、かもしれない。

それはひとそれぞれだろうけれど。



カメラのシャッターを切ることは。

目の前に現れた光景の奇跡とそれへの感謝。

その瞬間を切り取れたことに対する奇跡と感謝。

そうして、かつては写真は撮られていた。



けれど、今は撮ってすぐに写真を確認することができる。
一回のシャッターのなんと軽くなったことか。わたしたちは、その奇跡の瞬間を浪費しているのかもしれない。

わたしは、一回のシャッターを、軽々しく切っている。

その瞬間に、全神経を研ぎ澄ませたり、集中したりはしていない。

そこまで深刻に考えなくてもいいのだろうけれど。
それでも、写真を撮る、ということに、もっと真摯に向き合いたいと。

そう思ったのだ。

20年経って教わること。

人の生きた証は素晴らしい。

ありがとうございます。

f:id:kayamy:20160921082706j:plain