心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

誰かのことを忘れていないか。人でも物でも場所でも分け隔てなく、向き合える自分でありたい。

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「木の根を踏まないように」

と言われたことは過去にもあったけれど。

「落ちている木の枝を移動しないように」
と言われたのは初めてだった。

後ろのひとが歩きやすいように枝を移動する。
それは確かに、優しさから出た行為だけれど。

でも、それは人の都合。

自然が枝を落としたそのままに。
自然の中に分け入らせてもらう時点で、彼らの領域を侵してはいるのだけれど。

それでも、自然のあるがままの形を侵すのは最小限に。

その気持ちを忘れない、それも大切なのだとその時知った。

落ち葉を使ってアート作品を作っている人が言っていた。

自然のあるがままの姿が一番美しいのだと。

木の葉が舞い散るままの、道路に落ちたそのままの配置が最も美しい。

人がそこに手を加える必要なんてない。

自分は、いかに自分の意思を排して、自然のままに美しい配置を作品に再現するか、それだけを追求したい、と。

自然はそのままの姿で完璧だ。

わたしたちは、自分たちの都合で、これがいいだろう、あれがいいだろうと、あれこれいじりたいと考えてしまいがちだけれど。

けれど、多分そのすべてが不必要なのだ。

自然は最高のアーティスト。

その最高のアーティストに、たかだか数十年しか生きていないわたしたちが、敵うはずもない。

わたしちは、自然の好意でその近くまで、その懐の中まで入らせてもらうことができる。

その優しさに甘えて、良かれと思ったとしても、自分たちの常識だけで行動してはならない。

許されても、受け入れられても、それでも、その場所への礼儀を尽くす。

本当にささやかなことであったとしても、だからこそ。

ひとつ、ゆるんだその途端、すべてのものがゆるんでいく。

自分にとってのこれがいい、は相手にとってはそうではない。
そんなことも多くて。自分がほかの誰かのために、良かれと思ってしたことが、別の誰かを傷付ける。

ひとりひとりがひとりひとり、考え方と感じ方、境界線を持っていて。

その境界線を、出来るだけ大切に出来るように。

そのひとは、何を望んでいるだろうか。
いま、何を一番大切にしたらいいだろうか。

何度考えても、どれだけ考えても、いつも最適な回答が出るわけではないけれど。

でも、誰が相手であっても、何が相手であっても、考えられる、気にかけられる自分でありたい。

何度も日常の中で忘れても、何度も思い出せるといい。