心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

一瞬一瞬の、奇跡の積み重ねが今。奇跡のバランスアート。

舞台に積み上げられた椰子の葉軸たち。

長いものは3メートルほどあるだろうか。
乾いた葉軸は、生き物の骨のようにも見える。
儀式が始まる予兆のような、凛とした静けさ。

静かに女性が歩みを進める。
その足取りは厳粛で、古代のシャーマンを思わせた。

最初の骨に添えられた一枚の羽。

その骨に、一本、また一本と重ねられていく骨。
ゆらゆらと揺れ、不安定で、ほんの少しずれるだけで崩れ落ちるだろうそれら。

奇跡的な均衡を保って重ねられる骨が、
女性の頭上で巨大なモニュメントとなる。

それは、
動物の背骨のようにも、
舟のようにも、見えた。

けれど、わたしにとっては翼だった。

人を、目指す未来へ連れて行く翼。

彼女がその翼を頭に掲げたとき、ふと涙がこぼれた。
何の脈絡もなくナスカの地上絵が浮かんだ。

たぶん、これが奇跡の形だ。

これは、ひとの力で、ひとの思考で、到達できる領域ではない。
繰り返し、繰り返し鍛錬を積み重ねることで、表層意識ではなく深層意識がなにをどうすればいいかをからだに伝える。
思考は消え去り、ただ自分と対象物だけが在る世界で、そこにある未来を現在へ引き寄せる。

そんなことを考えた。

奇跡が現実化する間、舞台から一瞬たりとも目を話すことができなかった。
あの時、彼女の世界に自分と対象物しかなかったように、観ていたわたしたちの世界からも、周りの人の存在は消え去っていたように思う。

こんな瞬間は、人生で何度訪れるだろうか。

一度は諦めたこの場所に立てたこと。
彼女の奇跡を直接目にすることができたこと。
何にどれだけ感謝すればいいかわからない。
何をもって報いればいいのかもわからない。
ただ、わたしは、本当に本当に、幸せだ。

今回の舞台は「伝統」「今」「未来」を3名のアーティストが表現するというコンセプトだった。

サントンバランスは「今」

一瞬でも集中を途切れさせれば、一瞬でも自分が作り上げたい未来を見失えば、その途端に消え失せる世界。

現在は過去と未来の間に現れる、一瞬の陽炎のようなもの。
触れたその瞬間に過去に変わるのが現在。
ほんの一時だけ、奇跡のバランスの上に現実化する。

その、一瞬を切り取った舞台芸術
それがサントンバランスだった。

どんな現実も、奇跡的なバランスの上にある。
羽一枚の重みですべてが消え去ってしまうほどに、危ういバランスの上にあるのだ。

一本一本が重なることそのものが奇跡的な、このアートのように、現実もひとつひとつが奇跡の積み重ねで、その奇跡を掛け合わせたものが今わたしたちが見ている景色なんだろう。

「伝統」は多様なダンスのかけらで構成されていた。
力強く、しなやかで、軽やかで、完成された美しさ。
すべてがそのかけらの中でひとつの世界を完結されていて、めまぐるしく移り変わる場面にひとつではない伝統の多様な形を見た。

「未来」は音楽に混じる機械音、人々のざわめき、騒音に彩られた理解不能な世界の中を舞う、無機質な、予測不能な動きで創り上げられていた。
「伝統」を覆し、ただ自由に、制限のない表現の世界を漂う。そこに、可能性にあふれる未来の形を見た。

そんなことを感じられる場。
アートってそういうことだ。

アートは、何も説明しない。
ただ、見た人がそれに対して自由に意味付けをする。
自分が見たいものを、受け取りたいものを手にする。

この日の舞台を実現したフナビキチヒロさんは、心を豊かにするエンターテイメントとして、生の舞台芸術を広めたい、と語っていた。

ダンスは人が自分の体を使って表現するアート。
絵は何も語らないけれど、そこに生の人の体温はない。
歌は生の人の体温はあるけれど、語られる言葉がある。
それはそれでもちろんそれぞれの素晴らしさがあるけれど。

ダンスは何も語らず、ただ人が動くその姿からなにかを感じ取る。
それは、コミュニケーションの究極の形かもしれない。

そんなことを思った1日でした。

改めて、この日の奇跡に感謝したい。
フナビキさんを始めこの日を作り上げてくれたすべてのひとに。


performance collection

Miyoko Shida Rigolo

※写真は公式facebookページよりお借りしました。

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