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心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

なんとなく行ってしまう場所が自分の今の現在地。

吉野家に行ったときのこと。

お昼休み、次から次へとやってくるひとたち。

とにかく迅速に、てきぱきと客をさばかなければ、と声を張り上げるお店の人。

そこには食べる時間を楽しむ、という余裕がなくて。

ただひとりひとりが席に着いて、そそくさとごはんを食べて、そうして食べ終わったらすぐにお店を出ていった。

そうだ、ファストフードってこうだよなあ、とそんなことを思った。

マクドナルドがファストフードの代名詞だけれど、今はどちらかと言うと、セットを買って友人としゃべったり、仕事をしたりと、「とどまる」場所になりつつある気がする。

それは、飲み物があるというのが大きい。

飲み物さえ置いておけば、「まだ飲んでません」と、自分がそこにいる正当性を主張できる。

でも、飲み物を注文できなければ、ごはんを食べてしまえば、そこにいてもいい理由がなくなる。

「ごゆっくり」
と、こういう形態のお店でも言ってもらえるのだけれど、ゆっくりする理由が最初に消されてしまっているのだよなあと。

カウンターがあるお店、ということが滞在時間を短くさせるのかとも思ったけれど、お寿司屋さんも飲み屋さんも、カウンターだけのお店はたくさんあって。
長い間滞在してはいけない、と思わせるのはお店の雰囲気となんとなくの暗黙の了解となっているお店のコンセプトなのだろう。

そのために、極限まで効率化されて、小さなスペースにすべてを納めて動線も考えられた、無駄のない空間はある意味美しいとは思うけれど、それでもやっぱり余裕がないなあって思う空間はわたしは好きじゃないんだな、と改めて思う。

そして、そう言われると、まずはあなたたちにゆっくりしてほしいなあとか思ってしまう。

ゆっくりしたら客がいらいらするから、はやくはやくと急き立てられるのだろうけれども。
そう考えたとき、わたしたちはいつから「たった5秒」が待てなくなったんだろうかとも考えてしまう。

その5秒で何が変わるわけでもないのに、その5秒がまるで致命的な何かのように行動してしまっていることがある。

それほどに、こういう店に来るわたしたちにも余裕がないのだ。
だからこそ、余裕がないように見えるこのお店の空間に、このお店のひとたちがなんとなく気になってしまう。

それは、「なんとなく行ってしまう」ということも同じで。
わたしたちは自分が居心地のいい場所、今の自分の精神状態に近い場所を無意識のうちにも選んでいる。

だから、基本的にマクドナルドや吉野家に帝国ホテルにいるようなひとはいなくて、帝国ホテルのラウンジに吉野家にいるようなひとたちはいない。
吉野家でセットメニューを頼むのと、ラウンジでコーヒーを一杯頼むのと、値段は大して変わらないのに。

他人は自分の鏡、と言うように、自分の周りに誰がいるかも自分の状態を表しているけれど、自分がふらりとなんとなく行ってしまう、その場所も自分の心を表しているのだろう。

「なんとなく」行ってしまうというのが肝で、それって無意識の自分の価値観とか考え方を反映してる。

だから、そんなふとした行動も、自分の「今」を知る手がかりになる。

素敵な人が手作りで丁寧にごはんを作っている、のんびりゆっくりした空間でくつろぎたいと考えていながら、わたしの「今」はこうなんだなあとそんなことを気付かされた時間。

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