心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

質量を持つ、音の波を聴く。

音の波が、直接自分に入ってくる。 
音の波が、質量を持ってからだをゆさぶる。
寄せては返す、その波が、こんなにもはっきりとわかるなんて。

音がからだを引き寄せる。
音がからだを遠ざける。

自然とからだがおとにあわせてゆれる。
まるで、波の中をたゆたっているかのように。

音にふれる。

音にひたる。

音に、おぼれる。


冬に友人が参加していたイベントで、妙に記憶に残っていたその名前。

通常の楽器が持ち合わわせている共鳴空間がない、とても微かな音を奏でる楽器。

いや、楽器が音を奏でてその音を誰かに聴かせるためのものならば、クラヴィコードは楽器の役割を果たしていない。

耳を傾け、聴こうとしなければ音を受け取ることが出来ないのだから。

普段の生活で気にかけたことのない空調の音ですら、音を聴く時の妨げになる。

微かな音。
研ぎ澄まされる聴覚。
研ぎ澄まされる五感。

奏でられる音と、自分。
世界がそれだけになる。

演者も、楽器そのものも、
まわりにいる友人たちも、
すべてが自分の世界から消えていく。

自分がどこにいるかすらわからない。

音は、ある時森の中にあった。
ある時は、礼拝堂の中にあり、
ある時は、東欧の街中にあり、
そして、ただ暗闇の中にあった。

クラヴィコードの音だけが自分の中にこだまして、
その音が、自分の内側を満たしていく。
音が満ちていくにつれ、足元からあたたかくなり、
体が軽く、遊離するような感覚に満たされていく。

椅子に座る自分。
奏でられる、音。

世界がそれだけになって、
自分の中が音楽だけになる。

ふと、衣擦れの音を聴く。
ああ、隣に誰かいたのだ、
と気付く。

ふと、息を吐く音を聴く。
自分が、ここにいたのだ、
と気付く。

自分の存在そのものがどんどん透明になり。
自分の感覚と音だけがこの世界に残される。

床の感覚もなくなり、
現実と切り離されて、
ただ、音だけを聴く。

そんな、不思議な時間。

楽器を奏でる際の、
指を動かす、おと。
吹き込む息のおと。

そんな、普通の楽器の音を聴いている時には、気付くことすらない、ささやかな、かすかなおとですら、鮮明に、まるですぐ耳もとで奏でられているように聴こえる。

こんなにも、世界にあふれる音があると気付く時間。
こんなにも、日々聴いていない音があると気付く時間。

わたしは無音の空間を愛している。
厳密には無音ではないのだけれど。
ただ、そこにある自然の音だけを聴く、その時間がわたしにとってはとても大切な時間なのだ。

わたしは自宅にいるときに音楽を聴くことはほとんどない。
歌は、聴いているうちに歌詞が消えて自分の聴覚から音も消えてしまう。
このため、大学の頃には聴くのをやめてしまった。
隣家の騒音に耐え兼ねて、音楽を聴いていたこともあったけれど、いつしか聴くことはなくなった。

そんなわたしが聴くのはarai氏の三昧琴の音のみ。

miyoko shida rigoloのSanddornbalance.
yasuhito araiのsamadihibowl.

最近触れたひとたちの表現を思い出す。
わたしの心をふるわせる踊りと音は、静寂と自然とともにある。
その場のすべてと調和し、その場のどんなささやかなものにも影響を受ける。
演者のこころはただひたすらに静かで。
ただただ、自分の周りのすべてを聴き、すべてを受け入れ、すべてを表現する。

彼らは毎回、毎瞬、自らの表現をその場で創り上げているのではないだろうか。

同じように聴こえても、動きも、音も、同じであったとしても、その場を感じて創り上げられる彼らの表現は、常に、たとえささやかであったとしても、毎回違うものなのだろうと思う。

場所が違い、人が違い、そして自分も変わってゆく。
同じものはひとつとしてない、とは使い古された言葉だけれど。
それをこうも感じる機会が幾度となく訪れる。

その、決して二度と訪れることのない瞬間を、ともに過ごせたことを、本当に本当に尊くありがたいと思う。

たまたまご一緒してのその場のそんな流れで、こんなにも素晴らしい時間が過ごせたことを、心から、心から感謝します。本当に、ありがとう。

わたしは、本当に本当に幸せだ。
毎日が、震えるほどの感動に満ちている。

内田 輝(クラヴィコード奏者)

miyoko shida rigolo

yasuhito arai

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