心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

写真が映し出す世界と真実。

1月にカメラを始めた。

何年も前に手にしていたカメラは部屋の片隅に埋もれていた。
そんな不憫な彼女を手放し、本格的な一眼レフを買ったのが今年の始め。

心震える写真家との出会いが、わたしとカメラの関係性を再構築した。
一度はほとんど断絶していた関係が、こうも彩り鮮やかに豊かに蘇ることがあるのだと知った。

あれから半年以上の歳月が経った。

あんなに厭っていたのに、重いカメラを日常的に持ち歩き。

気付けば、わたしは日常的にファインダーを覗くようになっていた。
はっとするこの一瞬を、写真に収めたいと日々思うようになっていた。

わたしの目は、いつのまにかカメラのファインダーになっていた。

この目の前のこの人の表情を、この瞳のきらめきを、あの花の美しく花開く一瞬を、花びらがこぼれる様を、
あのトマトの瑞々しさを、滑らかに伝う水滴の美しさを。

ひとつひとつの世界が輝き、ひとつひとつの素晴らしさとかけがえのなさがわたしの日々を満たすようになっていた。

喫茶店で飲んだコーヒーも美しかった。
足元に舞い散り広がる落ち葉も美しかった。

日々の中でなんとなく見過ごし共に過ごすものたち。

美しくなければ、心が動かなければ、カメラを向けようとは思わない。

わたしがカメラを向けて、その姿を収めたいという衝動に駆られるということは、そのものに対して美しさを、魅力を感じているということなのだ。

カメラを向けたいという衝動が、わたしにそれを美しいと思っている自分の心に気づかせてくれる。

写真を撮る様は、空に浮かぶ月のようだと言った人がいた。

太陽がなければ光ることのない月。
太陽の輝きで美しく淡くその姿を現す。

被写体がいなければ、写真は撮れない。
被写体が明るく光を放つからこそ写真も輝く。
どんなにわずかでも、光を集めてそれをかたちにするのが写真。

写真家は、光を見ている。
そのものが放つ光を。
それは山かもしれない星かもしれない人かもしれない花かもしれない。
けれど、おそらく確実に言えることがひとつある。

その中に、光を感じていなければ、その光を集めて写真にすることはできないのだ。

どんなに酷い写真でも、どんなに醜い写真でも、それを写真に収めたということは、そこに自分にとっての光を見ているのだ。
光の定義は人それぞれ。けれど、それを光だと感じる自分が、その光を集めて撮られた写真が、自分が何者かを教えてくれる。

自分にとっての美しい世界を残すこと。
自分にとっての美しい世界を知ること。

写真は、まさに、自らの世界の鏡なのだ。

美しい世界を伝えたいと思うなら、美しい世界を見続けなければならない。

世界の残酷さを伝えたいと思うなら、残酷な世界を見続けなければならない。

どちらが良い悪いではなく。
その人の生き様だ。

そして、その人がその先に何を思い何を考えているか、どんな世界を見ているか。

それが現れるのが写真。

だから、写真家は自分の思考に、自分の行動に、自分のあり方に気をつけなければならない。

それが、すべて写真に表現されてしまうから。
残酷なまでに真実を映すのが写真なのだろう。

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