心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

軟酥法座禅。 ゆるりと蕩ける一期一会の夜。

大人の夜坐禅、軟酥法。


軟酥(なんそ)、という

芳しい香りのとろりとした液体。

この日のそれは優しい薔薇の香りで。


それが、頭頂部からゆるりと蕩けて、

耳を、首を、肩を、腕を、ゆっくりと、

ゆっくりと、流れ落ちてゆくのを感じる。


軟酥は身体の傷んでいるところに

染み込みその場所を優しく包み込み。

その傷みを緊張を滞りをほぐしていく。


ゆっくりと身体のすべてを伝っていく軟酥。

それはやがて身体の内側にも染み込んでゆく。


わたしたちの身体は数多の臓器から成る。

その臓器たちはいつも一生懸命働いていて。


そうして時に、傷んでいる。

軟酥はその臓器の間に染み込み

それらの傷みを緊張を滞りを癒す。


身体の外側も、内側も。

軟酥が包み込み満たされる。


軟酥に満たされて見る世界は、

ゆらゆらと陽炎の向こうに在る。


起きているのか寝ているのか、

部屋に座っているのか湯に揺蕩うのか。


ふわふわと曖昧な空間の中で、

まるで温泉にでもいるような心地よさ。

 

 

ここに来ると、時間の流れが緩やかになる。

日々の忙しい時間からあっという間に切り離されて、

ただゆるゆるとほどけて穏やかな流れの中に漂うような。


ここで出会う人も一期一会。

座禅を組んだ後に美味しいご飯を囲んで、

そうして深く楽しく和気藹々と語らいそして、

多くの場合はどこの誰かも何も聞かずに別れる。


社会の属性から切り離されて、

ここで座禅を組んでご飯を食べた、

それだけのシンプルな繋がりとして、

出会って別れてまたどこかで再会する。


この場所での繋がりは、出会いは、

人が人と出会い語らうということを、

ただ、それだけの価値を教えてくれる。


人が人と出会い、

同じ食卓を囲み、

そして別れゆく。


そこには、明確なものは何も生まれない。


けれど、その中に、間違いなく大切な何か、

があるのだろうと、それを貰っているのだと、

ここに来るたびに教えてもらっているように思う。

 

 

この日も素晴らしい時間を、素晴らしいご飯を、

素晴らしい出会いを、ありがとうございました。


また次の一期一会でお会いできますこと、

楽しみにしています。

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あなたという器はグラスか、ゴミ箱か。

コップかゴミ箱か。


ここに器がある。

それがコップなのかサラダボウルなのかを決めるのは、

その器そのものではなくて、その器の意味づけである。


この器に入れるものを、

飲み物だけだと言えばそれはコップであり、

サラダだけだと言えばサラダボウルになる。


そして、

なんでもいいよ、

なんでも入れていい、

と言えば。


それはゴミ箱になる。


なんでもいいと言った瞬間、

最も価値の低いものになる。


そして、

これの恐ろしいところは、

一度ゴミ箱として使われたものに、

誰も飲み物やサラダを入れたりはしないこと。


Yesと言う前は、

何にでも使える器だった。


でも、Yesと言った瞬間に役割は固定され、

そしてその役割はずっと続くものになった。


わたしは何のためのものだろうか。

わたしは何のために生きるのだろうか。


何でもいい、

何でもする、


そう言った途端に、

人もどうでもいい人になる。


それは、本人がそれを選んだからだ。


だからこそ、何を選ぶか。

自分という器の中に何を受け入れるか。


どんな思考を持つか。

どんな言葉を使うか。

どんな行動をするか。


それは、とてもとても、大切なことなのだと思う。

自ら動く。この当たり前のことに気付き続ける。

ここ一週間、

話を聞いたり失敗したり

課題にぶち当たったりして、

なんとなく腑に落ちたことがある。


わたしは自ら変わることを自分に誓いながらも、

どこかでずっと、目の前の誰かに変わってほしい、

と願っていたのだ。ほとんど無意識的に。なんたる。


例えば部下として上司にそれを求める理由があると。

上司は社長はこうあるべきではないかと、そんなことを。


そうではなかった。

例えいついかなる時でも、

「自分から」行動するのだ。


笑ってほしいなら自分から笑う。

褒めてほしいなら自分から褒める。


そうして、周りを巻き込んでいくのだ。


決して否定しない。もっと笑って、などと。


誰かにそれを求めることは、

目の前にいるその人の「今」を否定すること。


自分から褒めよう、感謝しよう、笑おう。


そうして、感化されて笑顔が増えたら儲けもの。

 

 

思い出したことがある。

かつて読んだ「7つの習慣」で衝撃を受けた言葉。


「愛」とは動詞である。

目の前の人を愛せないと思うなら、

目の前の人を「愛する」行動をすること。


そこから愛が生まれる。


「好き」もきっと同じこと。

目の前の人の良いところを見つけて、

それを言葉に態度に出して褒めてみたら、

その人のことがあっという間に好きになる。


この一週間、たくさん失敗した。

たくさん自分のどうしようもないところを見た。


なぜそういう心の動きを、行動を、思考をしたのか。

それもこの一週間の間に考え続けてある程度理解した。


すべての事象に意味がある。

自分がその中に何かを見出そうとすれば。


来週は、またよりいっそう素晴らしい週になりそうだ。

嫌いな人も含めて、この世は優しさで出来ている。

どんなに素敵な人でも、どんなに酷い人でも、

好きな人が2割、普通の人が8割、嫌いな人が1割、

という話がある。多分、世界中に聞いて平均取れば。


ふと、その言葉を目にして考えてみたけれど、

わたしのことが苦手な人も嫌いな人もかならずいる。


けれど、幸いなことに、本当に幸いなことに、

わたしの前にはわたしが嫌いな人は現れない。


わたしは長い間自分のことが世界で一番嫌いだったけど、

そんなわたしのことを嫌いだと言う人はいなかったのだ。

まあ、もしかしたら忘れてるだけかもしれないけれども。


たとえそうだとしても。


わたしはめちゃくちゃ優しくて幸せな世界の中にいる。


わたしのことが嫌いな人たちは、

慎ましくもそっと身を引いてくれる。

世界のどこかに必ず存在しているとしても、

わたしの視界に入らなければいないと同じだ。


それは、その嫌いな人たちの優しさでもある、きっと。


彼ら彼女らが直接わたしに伝えずにいてくれるから、

わたしの世界はとても穏やかで満たされいて幸せだ。


そう思ったら、この世は優しさで出来ている、なあと。


そんなことをふと思ったりしたので書き留めておく。


冗談には深層心理の欠片が混じる。

ふとした言葉に本心は現れる。

何も考えずに、冗談みたいにふとこぼした言葉。


冗談だったから流されていったけれど、

その言葉を発したわたしは自分が驚いた。


その言葉を発した奥底の意図は、

その人を不真面目だと認識しているということだったから。


深層心理では、わたしはそう思っているのか。

自分の他者をジャッジす罪深さに愕然とする。


冗談は、冗談ではない。


本当に、微塵もそう思っていなければ、

冗談だとしてもその発想は出てこないのだ。 



心のどこかでそう思っているからこそ、

冗談という形で箍が外れてしまった時に、


本心というものがどろりとこぼれ落ちる。


恐ろしいなと思う。

と同時に、

そうして判断を下し続ける

自分の思考に終止符を打ちたい。 


ここのところ、

何度も自分のどうしようもない部分と対面している。


何度も繰り返し、

今回向き合うのは、乗り越えていくのはこの部分だと、


それを教えてもらっている気がする。


ひとつずつ、手放していきたい。

自分を他者をジャッジすることを。


直感を磨く、とは。

直感は大切、直感を磨け、

という言葉を聞くことがある。


思考することによって、

余計な思索をはさま


わたしは、

直感に従って誰と会うか、

何をするかを決めることがよくある。


けれど、

直感というのは、

今までの経験の集合知という側面も持つ。


そうであれば、

今まで自分の意思を殺し続けて

他人を優先し自己肯定感を埋めて来たなら、


直感にそれが反映されることはないだろうか。


直感を磨くとは、

日々の感情を磨くこと、

日々の思考を磨くこと、

日々の行動を磨くこと。


その先に、研ぎ澄まされた美しい世界が広がるのだ。


壮大な夢の達成は、子どもの頃の熱狂のその先にある。

大好きな蝶を

夢中で追いかけていたら

エベレストのてっぺんにいた。


そんな例え話を聞いた。


エベレストの登頂を目指して

達成することもカッコいいけれど。


自分の好きなことを夢中になってやっていたら、

いつの間にかとんでもない偉業を成し遂げていた、

という方がもっともっとカッコいいかもしれないと。


遥かなる目標は、

見たこともない世界は、

子どもの頃の熱狂の先にある。


そういうことなのかもしれない。


子どもの頃に純粋に好きだった

普通に手の届くところにあったものが、

遥か人類の未来の先まで繋がっているのかも。