心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

赤ちゃんの生きる力の凄さ。

一歳くらいの子どもがいた。

お母さんがお手洗いに立って。


お母さんが離れたその瞬間から。

お母さんが視界から消えたらもっと。

それはもう、力の限り全身全霊で泣いた。


体をよじり、喉を絞り、持てる全てを使って。


ただただ、お母さんを求めていた。


その必死さを見ていて。


幼い子どもにとっては、

お母さんが世界そのもので。

お母さんがいなくなることは、

世界が終わるようなものなんだなと。


ふと、そんなことを思った。


だからこそ、あんなに必死にお母さんを呼ぶんだろう。


お母さんが世界の全てなのに、

そのお母さんが消えてしまったら、

その子の世界は終わってしまうのかも。


それは死が目の前にある程の絶望なのかもしれない。


なんで、たった少し離れるだけあんなに泣くのか、とか。


その理由がなんとなくわかったような気がした。


泣いて泣いて、泣き疲れて眠ってしまうほど、

そこまでして必死に泣く子もいたりする。

それだけ生きていたいんだなあと思う。


ただ、生きたいってことなんだろうなと。


ただ、まっすぐに。


そうすると、赤ちゃんが泣くということは、

とても当然で、とても尊いことのような気がした。


生きていく上で、大人もたくさんの試練に遭う。

辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、たくさん。


そうして傷つくし心折れるし諦めそうになる。


そんなわたしたちの日常とは比べものにならないくらい、

赤ちゃんは、日々世界の喪失と向き合ってるのかもしれない。


そうして、必死に、生きようとまっすぐに願っているのかもしれない。


わたしたちはこの日本でそうそう死なないとわかってるし、

お父さん、お母さんがそうそういなくならないことも知っている。


赤ちゃんの周りは基本的には安全で死ぬことなんてないと理解している。


でも、そんなことは赤ちゃんにはわからなくて。

そのわからない中で、自分にとっての世界を確保して、

毎日サバイバルをしているのかもしれない。当たり前に。


そう考えると、赤ちゃんって実は本当に凄いんじゃないかと思う。


だって、親は何度でも目の前からいなくなる。

どうやっても四六時中一緒にいるのは無理だ。

その度ごとに絶望しながらそれに抗い続ける。


普通に大人になってからそれをやり続けたら心が壊れる。

そんなことを日々繰り返して成長しているのかもしれない。


それは、ほんとうに、ほんとうに、すごいことだ。


いや、これは全てわたしの妄想なのだけれど。


赤ちゃんがあんなにも必死で泣くのが、

自分の力で「生きること」への行動なら、

とてもとても純粋で尊いなあと思ったのだ。


あんなにも純粋に生きていないなあと思うから。

ただ生きることにまっすぐに全力であることは。


ただ尊いことだなと思う。


この日、赤ちゃんが泣き叫ぶ中で、

店員さんも店内にいる人たちもみんなが寛容だった。

優しく店中に響き渡る声で泣き叫ぶ赤ちゃんを見守っていた。


それは結構驚くべき光景で。


大げさだけど、生への賛歌だったり、肯定だったりするみたいだったなあとそんなことを思ったのでした。


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辛さと苦しさのその先。

ここ暫く、体調を崩していた。

食欲もなく、倦怠感が体を覆い、

思考は纏まらず、歩くのすら辛い。


そんな状況が一週間ほど続いた後で、


ふと。


あ、今、あのお店の蕎麦が食べたい。


と思えるようになった。


そうすると、ただいつもの店でいつもの蕎麦を食べることが、この上なく有難くて幸せなことのように思える。


体調を崩していた時は何を見ても食べる気が起きず体力を回復させるためだけに食べ物を口にして美味しいとも思えず咀嚼する。


それに比べたら、食べたいと思えるものがあって、それを実際に食べることが出来て、それを美味しいと思えることが、当たり前のことではなくてとても有難くて幸せなことなのだと気付ける。


いつも当たり前に享受出来ていることが当たり前ではないのだと、気付くことが出来るのは、まさに体調を崩すという非日常があってこそのもの。


仕事が忙しくて早朝から会社に出社し日付が変わってから帰るということを繰り返していた頃、ただ定時に帰れて太陽が空にあるうちに自宅への道のりを歩いていることに心から感動して喜んだように、当たり前のことが当たり前ではなくて有難いことなのだと気づかせてくれるのは、いつも辛いことや苦しいことが明けたその瞬間で。


それはまた日常が戻ってきたら忘れてしまう類のものだけれど、その辛さ苦しさがないと気づけないものや分からないことがあるということを、その渦中から抜けるたびに思う。


楽しいこと嬉しいこと幸せなことから学ぶことは多い。気付くことは多い。でもそれと同じだけ辛いことや苦しいことから学ぶことや、気付くことも多い。


もちろん、辛いことや苦しいことなんて少ない方が人生は幸せだし、あえてその中に自分を投じた方がいいかと言われると全くそんなことはないと思うけれど。


でも、渦中では気づけないことを、過ぎ去ったその時に気づかせてもらえて何かを得させてくれることも間違いはなく。


渦中にいる時は余裕がなくてそうは思えないことも多いけれど。

終わると、ああ、ただ有難いなあと思える日がやってくる。


だからまあ、今この時も大丈夫なのだ、といつもどこかで確信できているといいのだろうな、とそんなことを思った病み上がりの昼。

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世界を言祝ぐ言葉たち。

わたしは誰かが語る大好きなものの話を聞くのが好きだ。


好きなものを語るとき、その人は世界を言祝いでいて、その人から語られる好きなものを中心とした世界がきらきら輝いていて、とても美しいと思うから。


世界にどんなに酷いものがあっても、人がどんなに醜くても、誰かが何かを好きだと言うその言葉の数だけ世界に美しいものがあるという証明になるようで、世界の素晴らしさが拡張されていくような感覚を覚える。


そして、その人の好きなものを共有できる言葉というものがあって、その人とともにそれを共有できるということがどれだけ素晴らしいことか。


言葉がなければわたしは誰かと世界の美しさを分かち合うことが出来ず、わたしの世界はわたしの好きなものの数だけでしかその美しさを測ることが出来ない。


誰かと言葉を交わせるからこそ、今目の前にいない(時間軸としても空間軸としても)誰かの言葉を今読めるからこそ、わたし一人では到底集めることが出来なかった世界の美しさをたくさんもらうことができる。


わたしたちは、後の世代に生きれば生きるだけ、これまでに先人たちが積み重ねてきた世界を言祝ぐ言葉の数々に、美しい世界の数々に触れることが出来る。

それだけで、わたしはなんと幸せな時代に生きることが出来ているのだろうと思う。


藤原道長が空に浮かぶ満月のようにこの世を治めていた時代、時代の敗者であった清少納言がただひたすらに綴ったのが世界を祝う物語であったということがとても美しいと思う。


自分の愛する人を育んでくれたこの世界を否定するのではなく肯定し続けることで、素晴らしいものを見つけ続けることで、清少納言中宮定子を言祝ぎ続けたのかもしれない。


日常の何気ない場面に、何気ない仕草に、何気ない一瞬に、美しい世界を見出し続け、その言葉で世界を言祝ぎ続けたのが清少納言だったのかもしれない。


ほとんどの言葉はただ綴られ消えていく。後世まで残るものは多くはないけれど。でも綴るなら世界を言祝ぐ言葉を紡ぎたいと思う。


そんなことを感じさせてくれるTwitterの言葉があって、多くの言葉に触れられる今の時代は最も幸せに近いのかもしれないと思う。

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アセクシャル。(ブログ再開と若干方針変更)

今日はなんだかとてもいい日らしいので、

ブログを再開します。


と、共に、最近は仕事が忙しすぎて

さっぱり出かけることが出来ていないため、日々考えていることを徒然なるままに書く、

という方針に変更します。


そんな初日から突飛な内容の投稿を。


アセクシャルという、

男性も女性も恋愛対象にならない

セクシャリティがある、

ということを最近知りました。


これがもうとてもしっくり来たのです。

ってかこれ自分だわってやつですね。


男性が恋愛対象でない人がいて、

女性が恋愛対象でない人がいるなら、

どちらも恋愛対象でない人もいるだろう。


なるほどMECE的にはそりゃそうだ。


生物学的にそれはいかがなものか、

と思ったりしたこともあったけど。

生物は常に自らの種の存続に対し、

最も適切な選択肢ばかりを残すか、

というとそんなわけでもないのだ。


思春期に自然に恋愛を始めることが

まったくもって理解できなかったし、

恋愛関係の話に興味が持てなかった。

恋愛にとても比重が置かれる理由も。


良い悪いではなくて、興味がないと。


今はひとつの人の心理状態だという、

人にとって大切な心の動きだという、

そういう風に理解して共感も出来る。

大切な人が、大切にしていることは、

大切にして共感して分かち合いたい。


でもまあいつまで経ってもそれだけ。


憧れるし良いなあと素敵だとも思う。

婚活もしたし付き合ってもみたけど。


自分にとっての実感という意味では、

良さもわからず興味もわかないのだ。


だからこそ、わたしにとっては仕事が大事。

たった一人の愛する人を作れないからこそ、

愛する対象が必要なんだろうなあ、と思う。


愛されたいし愛したいし、でもそれは恋愛じゃない。


と、いうことなんだろう、きっとおそらく。


わたしはこのセクシャリティについて、

自分の中だけなら悩んだことも困ったことも、

誰かに理解してもらいたいと思ったこともない。


ただ、周りと比べて違うから矯正した方がいいのか?

とか、食わず嫌い的なもので実は違うのではないか?


そういった周りとの比較で悩んだだけだった。


でもまあこういうことってあれだ。

寿司が食べれないなんて人生の半分損してるよ!

的なものと一緒なのかもしれない。


寿司が食べれる人もワインが飲めなければ

やっぱり人生の半分損してるのかもしれないし、


それだと接することが出来ない領域のものが

複数ある人の人生はなくなっちゃうじゃないかと。


まあだから、自分が持ってるカードで

人生を楽しめばそれでいいわけなのだ。


持てないカードや

知らないカードのことは

気にしなくても全然構わない。

だって今は手元にないのだから。

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泥で出来た蓮の花。土の息衝く声が聴こえる。

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土の息衝く音が聴こえるだろうか。


床の間に置いてあるのは、

枯れた花なんだと思っていた。


近付いて、それが違うと知る。


それは、土で出来た蓮の花。

生き生きとした蓮ではなく、

少し萎れてきたその一瞬の。


ざらざらとした土の感触は、

まるで蓮が土の中で化石化したかのよう。


土の中で、土によって、時を止めた蓮の姿。


そのまま枯れて花弁が落ちていきそうな存在感。


色はなく無機質なはずなのにどこかあたたかい。


ざらざらとした手触りとまだらの色合いは、

だからこそ、花の存在感と生命力を増して。

 

 

蓮の花の正体は香炉。

 

 

美しい花から心安らぐ香りが立ちのぼる画は、

それだけでとても美しく、豊かな時間だった。

 

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川村さんの手がける作品は、

土の息吹を感じるものばかり。


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しんとした、山の中の土のこえ。

豊かで、どっしりとして、繊細で。


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土と、水と、風と火と。


陶器を形作る自然の力。


それにひとの想いを込めて、


ひとつひとつの作品が生み出されていく。


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どんなにたくさん作っても、

自分が作った作品はわかる。


作品の巧拙や想いの深さに関係なく。


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それはとても不思議なことだけれど、

作品を作ることはそういうことなのだろう。


自分の身を分けたものたちは、

離れてもどこかで繋がっている。

 

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頂いたお菓子も抹茶も美味しくて。

ご一緒したみなさまと話す時間も、

とても豊かで楽しくて満たされた、


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とてもとても、豊かで幸せな時間でした。


ご縁を結んでくれて本当にありがとうございます。

 

 

個展の会期は明日まで。

作品の購入も可能です。

気になった方はぜひどうぞ。

  

 

開催場所

千嘉

東京都中央区日本橋人形町2-25-4

人形町駅A3出口から徒歩1分


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「夢」と「目的」と「志」。その違いを言えるだろうか。

「夢」と「目的」と「志」。


これらの違いは何か、と問われて答えられるだろうか。

わたしはうまく答えられなかった。


「今、なぜあなたはここにいるんですか」


すぐ明確に答えられるほどに、

目的を自覚しているだろうか。

 わたしは一瞬言葉に詰まった。


 

意識しているようで、意識していない。

明確にしているようで、明確になってない。

実は漫然と毎日を過ごしているんじゃないか、

そんなことに、気付かせてもらえた時間でした。


グローバルイノベータープログラム。


宗像さんの「目的」の講義。

本当に、この講義を楽しみにしていた。

わたしはずっと、これを自らに問いながら生きている。

だから、ただ目の前の仕事をすることでは満足出来ない。

 

 

「夢」は自分のために見るもの。


「目的」はなぜそこに向かうのか。


「志」は目的よりも社会性の高いもの。

 

 

わたしは常に「志」を持って生きていきたい。

だって、自分一人だけなら今すぐにでも幸せに出来るから。

そりゃあ毎日色々あるけど、浮き沈みも激しいけれど、例えば美味しいものを食べて大好きな人と笑いあえば一瞬で幸せになれる。


自分の幸せのためだけなら、

別に成長しなくても努力しなくてもいい。


なんにもいらない。


前に進みたいのは、成長したいのは、志のため。


自分の中で明確になってはいなくても、

きっとみんな胸のどこかに持っているはず。


そんなことを思う。

誰もが誰かを幸せにしたくて。

その大元にはもっと大きな志がある。


恥ずかしかったり、

自信がなかったりして、

ただ言葉にならなかったり、

気づかずにいたりするだけで。



こういうことを書いてて思う。



表現するということは、

言葉にするということは、

全部が明らかになるということ。


言葉にして表現したその瞬間に、

込められた本心が明らかになる。


本当に心からそう思っているのか。

どこまで熱意を持っているのか。


ぜんぶぜんぶ、文章から読み取れてしまう。

自分が思っているよりずっとずっと。


それを、もっと一致させていきたい。

自分をきちんと認識して受け入れて。

そして毎日ご機嫌に生きていきたい。

心身ともに最高のコンディションで。



志を真に自分の身に落とし達成するために。



明治維新の志士を多数生み出した

松下村塾で毎日聞かれていたことがあるという。


あなたの志は何ですか。

あなたの目的は何ですか。


毎日毎日常に聞かれて考えて、

潜在意識に落とし込んだから。


だから出自にも才能にも関係なく、

あれだけ多くの人たちが歴史に名を残した。


教育というものの基本だなと思う。


いつも心に太陽を

ついでにいつも心に松陰先生を、

住まわせてるといいんじゃないか。


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漂流女子。妊娠に悩み漂流しながらも生き抜く女性たち。彼女たちが、漂着出来る港でありたい。

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漂流女子。


望まぬ命をその身に宿した、

ひとりひとりの女性の物語。


勇気を出して、

一人で抱え込まずに

SOSを発した女性たち。


彼女たちの心に、


メールの中で、

電話で声を通して、

実際に会って、寄り添う。


そんな活動をしている団体がある。


にんしんSOS東京。


クラウドファンディングで資金を集め、

たった数名から始まった有志の活動だ。


単なる情報提供だけではなく、

一度きりの限定的な支援ではなく、

継続的に彼女たちの選択に寄り添いたい。

 

 

産むにしても。

産まないにしても。


命が宿ったことそのものに意味がある。


彼女たちが何をどう選択したとしても。

わたしたちは彼女たちの選択に寄り添うと。


 

団体が活動を開始して2年が経過した。



わたしは彼女たちの物語に触れて、

悲しむのかもしれない、怒るのかもしれない、

そんなことを、この本を読む前には思っていた。


彼女たちの境遇にも選択にも行動にも。

たくさんのさまざまな考え方があるだろう。


何を是とするかも人それぞれ。

わたしとは違う捉え方をする人もいるだろう。


でも、まったく誤解を恐れずに言えば、

わたしは彼女たちから生きる強さを感じた。


 

この本に登場する彼女たちは、

確かに辛く厳しい環境で生きてきた。


暴力を受けて育児放棄されて

健康保険証すら使うことができず。


性交を拒みきれず強要されて命を宿した。

誰にも相談できず誰にも相談することなく。


生きるか、死ぬか。

生かすか、手放すか。


究極の選択とも言える中で。


彼女たちは生きていた。自分を。


彼女たちが可哀想だって思うのは簡単だけど。

彼女たちはさまざまな事情の中で背景の中で、

生きていたんだと思ったのだ。とても、強く。


こういう本を読んでいると苦しくなることが多い。

でも、この本には不思議なほどにそれがなかった。


中島さんが繰り返し伝えるように。

この本には彼女たちの生命力が宿っていた。


美化するつもりはない。

彼女たちの心を体を侵して

ひとつのふたつの命を害した

男たちに安堵も安心も与えるつもりはない。



でも。

怒りだとか悲しみだとか、

そこにばかり目を奪われないのは、



それは、中島さんの視線かなと思う。

たぶん、彼女はメールを電話を受けた、

ひとりひとりのことを人として尊重してる。


可哀想だとか助けなきゃとか、

自分が上に立ったりしていない。


ただ目の前に立ったひとりの女性と、

まっすぐに向き合っているのだと思う。


彼女と初めて会った時、密かに驚いた。

本当に、どこにでもいる普通の女性だったから。


強くも激しくもなく、ただただ普通の女性。

彼女のどこにこんな団体を立ち上げるだけの力が、と。

そう思うと同時に彼女の瞳のまっすぐさは、

彼女と繋がるきっかけとなった、

尊敬する女性の持つそれととても似ていると思った。


なぜだろう。とても不思議なことに、

初めて彼女と会った時の彼女の瞳の色が、

あの時の部屋の風景とともに忘れられない。

  

 

団体が立ち上がったあの時から、

この本が発行されるまでの彼女たちの歩み。


そこには、本当に尊敬の念しかない。


目の前の人を尊敬して尊重して。

ただまっすぐに対等に向き合って。


言葉にすれば何てことのないものだけど、


それがどれほどに難しく大切で重要なことか。


 

そして、

そんな場があることが、

どれだけ救いになることか。


女性である以上、

女性とお付き合いする以上、

 

誰もが、


「思いがけない妊娠」

「望まない妊娠」


と出逢う可能性がある。


それは起こって欲しくない現実も含め。


どんな可能性もある、

そんな世の中にわたしたちは生きている。

 

 

だからこそ、

老若男女問わず、

すべての人に読んでほしい。


読まなくても、

「にんしんSOS」

という場があることを知り、

だれかに伝えていってほしい。


妊娠した時、

誰もが相談できるわけじゃない。


幸せで望まれた妊娠ばかりが、

この世の中にあるわけじゃない。


父に、母に、

娘に、息子に、

友人に、知人に、


いつ、

どこで、

誰に。


その瞬間が訪れるかわからない。



誰にも相談できなくても、

ここなら打ち明けられるかも。



結果的に何も起こらなくても。



ただ「知識として知っている」


それが本当に大切だと思うから。

 

 

窓口は女性限定ではありません。

男性にも開かれています。

 

 

性交の現実も

妊娠の現実も

中絶の現実も


にんしんSOSの存在も、


「あたりまえの知識」


として広がりますように。



ひとりで泣いたり悩んだり、

絶望したり命を絶ったりする人が、

少しでも減りますように。

そして、なくなりますように。



にんしんSOS東京

https://ninshinsos-tokyo.com


漂流女子 ――にんしんSOS東京の相談現場からー― (朝日新書)

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