心の景色の旅に出る。

こころふるえるだれかとの時間、そのものの中にあるだれかの想い、だれかの、じぶんのこころを旅したその軌跡を綴っています。

自ら動く。この当たり前のことに気付き続ける。

ここ一週間、

話を聞いたり失敗したり

課題にぶち当たったりして、

なんとなく腑に落ちたことがある。


わたしは自ら変わることを自分に誓いながらも、

どこかでずっと、目の前の誰かに変わってほしい、

と願っていたのだ。ほとんど無意識的に。なんたる。


例えば部下として上司にそれを求める理由があると。

上司は社長はこうあるべきではないかと、そんなことを。


そうではなかった。

例えいついかなる時でも、

「自分から」行動するのだ。


笑ってほしいなら自分から笑う。

褒めてほしいなら自分から褒める。


そうして、周りを巻き込んでいくのだ。


決して否定しない。もっと笑って、などと。


誰かにそれを求めることは、

目の前にいるその人の「今」を否定すること。


自分から褒めよう、感謝しよう、笑おう。


そうして、感化されて笑顔が増えたら儲けもの。

 

 

思い出したことがある。

かつて読んだ「7つの習慣」で衝撃を受けた言葉。


「愛」とは動詞である。

目の前の人を愛せないと思うなら、

目の前の人を「愛する」行動をすること。


そこから愛が生まれる。


「好き」もきっと同じこと。

目の前の人の良いところを見つけて、

それを言葉に態度に出して褒めてみたら、

その人のことがあっという間に好きになる。


この一週間、たくさん失敗した。

たくさん自分のどうしようもないところを見た。


なぜそういう心の動きを、行動を、思考をしたのか。

それもこの一週間の間に考え続けてある程度理解した。


すべての事象に意味がある。

自分がその中に何かを見出そうとすれば。


来週は、またよりいっそう素晴らしい週になりそうだ。

嫌いな人も含めて、この世は優しさで出来ている。

どんなに素敵な人でも、どんなに酷い人でも、

好きな人が2割、普通の人が8割、嫌いな人が1割、

という話がある。多分、世界中に聞いて平均取れば。


ふと、その言葉を目にして考えてみたけれど、

わたしのことが苦手な人も嫌いな人もかならずいる。


けれど、幸いなことに、本当に幸いなことに、

わたしの前にはわたしが嫌いな人は現れない。


わたしは長い間自分のことが世界で一番嫌いだったけど、

そんなわたしのことを嫌いだと言う人はいなかったのだ。

まあ、もしかしたら忘れてるだけかもしれないけれども。


たとえそうだとしても。


わたしはめちゃくちゃ優しくて幸せな世界の中にいる。


わたしのことが嫌いな人たちは、

慎ましくもそっと身を引いてくれる。

世界のどこかに必ず存在しているとしても、

わたしの視界に入らなければいないと同じだ。


それは、その嫌いな人たちの優しさでもある、きっと。


彼ら彼女らが直接わたしに伝えずにいてくれるから、

わたしの世界はとても穏やかで満たされいて幸せだ。


そう思ったら、この世は優しさで出来ている、なあと。


そんなことをふと思ったりしたので書き留めておく。


冗談には深層心理の欠片が混じる。

ふとした言葉に本心は現れる。

何も考えずに、冗談みたいにふとこぼした言葉。


冗談だったから流されていったけれど、

その言葉を発したわたしは自分が驚いた。


その言葉を発した奥底の意図は、

その人を不真面目だと認識しているということだったから。


深層心理では、わたしはそう思っているのか。

自分の他者をジャッジす罪深さに愕然とする。


冗談は、冗談ではない。


本当に、微塵もそう思っていなければ、

冗談だとしてもその発想は出てこないのだ。 



心のどこかでそう思っているからこそ、

冗談という形で箍が外れてしまった時に、


本心というものがどろりとこぼれ落ちる。


恐ろしいなと思う。

と同時に、

そうして判断を下し続ける

自分の思考に終止符を打ちたい。 


ここのところ、

何度も自分のどうしようもない部分と対面している。


何度も繰り返し、

今回向き合うのは、乗り越えていくのはこの部分だと、


それを教えてもらっている気がする。


ひとつずつ、手放していきたい。

自分を他者をジャッジすることを。


直感を磨く、とは。

直感は大切、直感を磨け、

という言葉を聞くことがある。


思考することによって、

余計な思索をはさま


わたしは、

直感に従って誰と会うか、

何をするかを決めることがよくある。


けれど、

直感というのは、

今までの経験の集合知という側面も持つ。


そうであれば、

今まで自分の意思を殺し続けて

他人を優先し自己肯定感を埋めて来たなら、


直感にそれが反映されることはないだろうか。


直感を磨くとは、

日々の感情を磨くこと、

日々の思考を磨くこと、

日々の行動を磨くこと。


その先に、研ぎ澄まされた美しい世界が広がるのだ。


壮大な夢の達成は、子どもの頃の熱狂のその先にある。

大好きな蝶を

夢中で追いかけていたら

エベレストのてっぺんにいた。


そんな例え話を聞いた。


エベレストの登頂を目指して

達成することもカッコいいけれど。


自分の好きなことを夢中になってやっていたら、

いつの間にかとんでもない偉業を成し遂げていた、

という方がもっともっとカッコいいかもしれないと。


遥かなる目標は、

見たこともない世界は、

子どもの頃の熱狂の先にある。


そういうことなのかもしれない。


子どもの頃に純粋に好きだった

普通に手の届くところにあったものが、

遥か人類の未来の先まで繋がっているのかも。

出来ている⇔出来ていない。自分の評価と実際と。その差に気づくことが第一歩。

したくない、と思っていることこそ

実は誰かにしていたりするものだし、


出来ている、と思っていることこそ

実は出来ていなかったりするものだ。


これらは自己否定ではなくて

気付くことで前へ進めるということ。


だから、気付かせてくれる存在が有難い。

まあ、その瞬間はめっちゃ痛いわけですが。


気付かなければその場所に止まり続けるから。


気付いて、修正したければ修正して、

追加したければ追加して、前へ進む。


あと、ふと思ったこと。


誰かの言う愚痴や悪口に

自分が影響されないように、

その人が言っていることや

やっていることなどの意味を

自分の中で変換することと、


その人自身に対して、

「それは違う」と否定することは、

まったく別のことだ。


わたし自身が思っていることを、

その人自身に納得してもらったり、

あまつさえ、説得する必要などない。


特に、その人自身が望んでいない時に。


その人が納得するかどうかと、

わたし自身の想いとの間には、

なんら関係性はありはしない。


誰かに納得してもらおうが、

納得してもらえなかろうが、

わたしの想いは変わらない。


しかも、他人は変えられないのだし。


だから、さらさらと水のように流すか、

その水の濁りを自分の中で浄化するか。


それだけのこと。


あなたの水の流れも綺麗にして、

とそんなことを頼む必要はない。


わたしの水とその人の水は、

同じように見えて違うのだから。


そもそも、わたしの「綺麗」と

その人の「綺麗」は一致しない。


だから、誰かに何かを望むことは、

意図せずに否定と押し付けになる。


ひとりひとりが、

自分の源流を持っていて、

その水の流れをどう保つかは、

その人次第でその人にしか触れない。


その人の水の流れがどうであれ、

わたしの水の流れとは関係ない。


ただ、その人の周りに流れる水流のひとつとして、

自分の水を美しくしたら、何か良い影響を与えられるかも。


とかその程度のこと。


なんとなく、見えたような気がしたのでメモ。

もしかしたらまた変わるかもしれないけれど。


わたしはずっと、意識することなく、

否定と押し付けを繰り返していたから。

これからは全部受け止めていきたい。


本当に自分のことは見えていなくて。

大切にしたいことが大切に出来てなかったり、

出来てると思っていることが出来てなかったり。


そんなことって本当にもう、いっぱいある。


だからこそ、気づかせてもらえることが有難い。


毎日毎日、気付かせてもらえる。

意図してのものも意図せずのものも。


少しずつでも進み続けていきたい。

理想に近づいていきたいなあと思う、

そんな今日この頃なのでありました。

露に濡れた緑の中で楽園の音を聴く。

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空気が甘いですね。


露に濡れた緑の中で彼はそう言った。


霧のような雨が庭園を覆い、

空気はしっとりと濡れていた。


雨上がりの空気は、


たしかに甘い。

 

 

水を含んだ空気は、

お堂の柱も馨らせる。


木の幹独特の、甘い馨り。


三方の壁が開け放たれたお堂は、

その素朴な木の柱の額縁の中に、

美しい、緑の世界を閉じ込めた。


お堂の中にいるのに、緑に包まれたその中で。


わたしたちは、楽園の音を聴く。


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その音は、まるで水の波紋のよう。


音の波が、優しく静かにこちらへ届く。

 

お堂を満たし、緑の世界へ零れてゆく。


水の玉に溶け、


緑の光に溶け、


蝉の声に溶ける。

 

 

まるで自然の中に沁み込むような、やさしい音色。


空気が甘いというのなら、その音もまた甘かった。


ひとつひとつが奏でる音は波紋となって調和して。


やわらかな緑と、にぎやかな蝉の声の中に消える。

 

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先日聴いた音色は、もっと凛としていた。


静かで、真っ直ぐで、ただただ美しかった。


この日の音は柔らかく甘くこの場を包み込む。


 

彼の音は連なる蓮の葉から零れ落ちる水。


静かに、美しく、零れ落ちる一雫の露が、


ひとつの蓮の葉から花から無限に零れる。


昨年聴いた時も、先日聴いた時も、それは一雫

 

けれど、この日は。


その一雫が落ちるその先から、

ふわりと優しく波紋が広がった。

 

 

その波紋が優しくこの場を時間から切り離す。

 

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じわじわとこの空間を満たす蝉の声。


蝉の声を思い出すと、子どもの頃に還る気がする。


暑い夏の日差しと、どこまでも青い空と一面の緑。


まるでどこにいるのかどれだけ時間が経ったのか。


目を閉じ緑をお堂を消して音だけを沁み込ませる。


起きているのか寝ているのか夢か現かそれすらも。


どこか暗闇の向こうに置いてきてしまったようで。

 

 

ただ奏でられる音と蝉の声とお堂に馨る香を聴く。

 

 

すべての現実の事象は消え去り

音と馨りの向こうに自分の心の庭を見る。

 

 

わたしが見る庭はいつもとても静かで美しい。


それが南国の庭でも京都の庭でも異国の少数民族の庭でも。


ただただシンプルで。

水の気配と豊かさと幸福が、

わたしの目の前に広がる庭を満たす。


荒井さんの音の向こうには、

いつも静かで落ち着いた幸福がある。


彼の奏でる音は、

わたしの心のさざ波を、

ゆるやかに消していく。


そして体をほどいてゆく。


ひたすらに心地よい時間に、


ゆらゆらと夢現の中で音に遊ぶ。

 

 

気が付いたら、演奏は終わっていた。

まるでひとときのまぼろしのような。

 

 

時計を見たら、それだけの時間は経っていた。


まるで昼下がりのうたた寝のようなひととき。

 

 

楽園の音に浸ってぼんやりとした頭をかかえて、


ああ、確かに夢のようなひとときが終わったんだな、


静かになって、人の声が戻ってきた空間を不思議に思う。

 

 

変わらず残ったのは、

お堂を満たす蝉の声と木の馨り。


そして、演奏中に炊かれていたお香。


少しぴりりと辛いそれに、

荒井さんの奏でる音の甘さと、

戻ってきた現実を感じたのでした。

 

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本当に素敵な、楽園の時間をありがとうございます。


この日この場所で、音に遊べた時間を幸せに思います。

 

荒井さんの奏でる楽園の音はこちらから。

本当に、まるで世界からふわりと離れるような、

やさしくしあわせでみたされる時間を味わえます。


YASUHITO ARAI

https://www.samadhibowl.com


昨年の記事はこちらから。

自然にたゆたう、自然がつくりだす、音の世界に沈む。

http://letterforyou.hatenadiary.jp/entry/2016/10/04/074922


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